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あさ。昨日は仕事しながら美味しんぼのカレー粉の話がいいんじゃないかと考えていた。

美味しんぼ24集「カレー勝負!」のあらすじ

季節は今時分。梅雨の晴れ間、栗子は荒川・三谷夫妻、ニキ金城山岡らとどっかの沢であそんでいます。
お腹が空いたので飯だカレーだということで準備をしていると、市販のルウなんか使うのかよ、カレー粉を炒めんかい、玉ねぎを炒めんかい、まじか、カレー粉炒めたら香り飛ぶがな、われアホけ、みたいな感じで勃発。
釣りで食材ゲットすると豪語していた三谷と山岡が「やっぱ釣れんかったワー」と戻ってくると、栗子、荒川、三谷婦人、ニキ、金城は全員そっぽ向いている状態でした…

ところかわって東西新聞社(ぷぁぷあぁー)

ここでもまだ言ってます。空気を和ますため山岡がカレーでバトったから、昼はカレーで仲直りやでー、ということで「マイダス王」という、最近評判のカレーショップに行くが、臨時休業の張り紙。山岡
戸は開いてるよ。」と言いながら中へ入っていきます。

(このまま書いていくと終わりそうにないので端折っていきます。)

中で、店主に店をしめている理由を聞きます。
店主がいうには、こないだ白髪まじりのオールバックの獅子のように険しい顔つきをした男が来店し、一番美味いカレーを出せという。チキンカレーなどいかが?とたずねると「ふむ、それを出してみろ。」と言い、少し食べたあと?(いや、ま、待った! まだ食べていない!? スプーンで掬って持ち上げただけ!? な、なんだってー)「これは本物のカレーか?」と尋ねます。ここ大事なので引用しますね。

店主、ちょっと聞くが……これは本物のカレーか?
は、はい、まじりっ気なしの本物のカレーですが……?
ほほう、では教えてくれ、本物のカレーとはなんなのだ?
えっ⁉︎
そ、それは……うちのカレー粉は私が自分でスパイスを調合したものですし……スパイスの調合は私がいろいろと研究をして……
ふうむ、カレー粉か
そもそもカレー粉とはなんなのだ?インドでもカレー粉を使うのか?インドにもカレー粉はあるのか?
この店のカレーが本物だと言ったからには、答えてもらおう。まず第一にカレーとは何か?
え……ええっ⁉︎
(店員ら、顔を見合わせ困惑&騒然、店主の妻は何なんこの客?みたいな感じ←このコマだけ台詞がないから筆者による補足説明)
カレーの定義だ、カレーと呼ばれるためにはなんとなにが必要なのだ?辛ければそれがすべてカレーなのか、色が黄色ければカレーなのか?
カ……カレーの定義ですって⁉︎
スパイスを調合すると言ったが、これを欠いたらカレーといえなくなるという、決め手のスパイスはなんだ?
そ……そんなこと……‼︎
では、この店はなにを根拠に、あるいはなにを標準にして、スパイスの調合をしているんだ?
それは私の好みで……
カレーの定義も出来ないくせに、自分の好みというのはおかしいじゃないか。
(書き文字:あぐぐ・・)

美味しんぼ第24集 カレー勝負! p12~p14 一コマの吹き出しを各一行とした。


(どうです? あなたは何を根拠に、あるいは標準にして、詩を書いていますか? どこで詩が完成したとおもいますか?)おっと


このあと、海原雄山は「カレー粉とはなにか? カレーは飯と食うのが正しいのか?」などとつづけます。店主を質問攻めにした挙句「こんな場末のカレーショップで訊くのも野暮だったな」「自分が作って食べさせてるもののことも知らないとはな…」といったような、去り際の捨て台詞も吐くことも忘れません。さすが、我らが雄山。
そうして店主はすっかり凹まされてしまいました。

これが「マイダス王」を店休に追い込んだ経緯でした。

このあとなんやかんやあって、この「カレーとは何か?」というクレーマーの人と、最初に釣りをしていた山岡という人は、新聞社を使って代理戦争というか、味をめぐってしょっちゅう対立するという漫画の既定路線があり、これにのっとって今回はカレーでバトる流れとあいなります。
まあ新聞社の取材名目なので金はじゃぶじゃぶ使えます。インド行きますわな。だいたいたぶん雁…カリーですねカレーです。
山岡は、だいたい書籍でカレーの秘密は知っていて、答えはもう出掛かっているんだけど、寸止めにして、シーマン法で、とりあえず「インド行かしてくれ」と。インドで実物を見てくるんだと。行きます。見ると聞くでは大違い、百聞は一見にしかずです。
山岡一行はカレーの謎を求めインドへ(先にスリランカにも寄りますが…)。

一応見所というか、観光名所的にセリフなど挙げていくと
よし、激辛カレーで顔を洗って性根をすえてかかってこい!
いやー、海原雄山いいですね。
挑発の見本みたいな。
激辛カレーで顔を洗う。
いいですねえ。
しかも「ワッハッハッ」書き文字の高笑い付き。



わたし、気づいたんですけど、海原雄山って、自分のために笑ったことって一度もないんですよね。いつも誰かのために笑っているのですね。
アニメ版でも、彼はたぶん美食倶楽部の廊下を曲がりきるところまでずっと笑い続けたりして、栗子を怯えさせたり、山岡を発奮させようと笑っている。本当にツボっておもしろくてひーひー笑っているコマはひとつもないのですね。
ときどき海原がひとりで「ふっ(白梅…)」と静かに笑うときのほうが、本来の「笑う」に近いですが、それでもおもしろおかしくて笑うということはあまりない。なんだかんだいって、雄山は息子を焚きつけるか、息子の成長をしんみり感じるときにだけ笑うわけです。雄山にはプライベートという概念がありません。
付記しておきますが、この栗田さんも負けておらず、物おじしないとかそういうレベルではなく、海原が「フフフ…」と睨みをきかせてくるので、一応それに「怯えた」顔で応じるのですが、美食倶楽部を一歩でれば「まぁ、あとは山岡に任せればなんとかなるやろ」みたいな感じで、まぁめちゃくちゃ楽観的なのですね。わたし、パワハラアルハラセクハラだいっきらいですけれども、この感じの「ノリ」というか「付き合い」は、いちおう守りたい派なんですね。
一応海原雄山を立てるけど、終わればケロッとしている栗子。そして人のためにひたすら笑い続ける雄山。このエネルギーの源泉掛け流しのなかで栗子は強くなっていくのだと思います。これは根性論とか処世術といったものに還元されるものではなく、なんかみてておもしろいなぁみたいな、美味しんぼをなんとなく読み始めたら止まらなくなる理由のひとつではあると思います。(また話がそれた…)簡単にいえば、反省しないというか、倫理が欠けているというのか、なんか全員いい感じにぶっ飛んでる、サイコパスというぼんびーを巡って桃鉄をやってるというのか、最序盤でサイコパスをやってた雄山は、漫画的な距離が近くなるにつれ栗子にサイコパスぼんびーがくっついて、途中からはひたすら栗子が惻隠の情で拾ってきた問題を山岡に丸投げしてケロッとするパターンが頻出します。雄山、栗子、山岡がとにかく問題を起こすか拾うかして、とにかく全部ごはんでまるく収めるようになります。そして結婚して、メタ対談を行なって、そこから先はあんまり読んでないんですよね…。なんか月島に家買ったみたいなとこまで読んだ記憶はあるのだが…。美味しんぼって部分的に読んだ気がして、読んでないとこ読もうとしたら案外全部読んでるってことが非常に多い漫画で、どこを読んでないのかがわからない。2000年代だとたぶん山岡がマカーでWindowsをディスりすぎて連載誌の広告を引き上げられそうになったり、ハチミツを子供に食べさせようとしたり、福島で鼻血出したあたりで色んな意味でドクターストップがかかったような気がします。このあたりはもう小さなコマにひたすら人の首が並ぶ漫画みたいな感じになってますが、もともと花咲さんが体を描くのが苦手なのかなぁみたいなことは思います。
まあとにかくどこかにサイコパスをなすりつけて、サイコパス狂言回しによる桃鉄状態とでもいうのか、そんな感じで美味しんぼ世界はぐるぐる回ってるわけですね。これが一度最高潮になるのが結婚直前の山岡あたりですね。というか、奉書紙の回でも山岡が回送シーンで母親から「おまえはサイコパスか!」みたいに言われてましたけど、あの世界観というか、あの美味しんぼ世界の愛情ってなんなんでしょうかね。
なんか栗田さんも当たり前を押し付けてくるし、読んでてかなりフラストレーションがたまる部分ではあります。

話がそれた。

カレー大戦争…‼︎(カレー勝負!〈1〉の最後のコマ)
ページの下半分でやるからコマがちっちぇのよ…

カレー勝負〈4〉(扉絵)
汗を飛ばしながら手でカレーを食べる栗田さんになんともいえないおかしみを感じる


p86 8コマ目
p86 8コマ目
p86 8コマ目
p86 8コマ目
p86 8コマ目

美味しんぼ 2426集 p86

ホラーである。ブラックジャックで無頭児が紹介されるコマや、ポックルが脳をくちゅくちゅされるコマと同種の気味わるさを感じる。
7コマ目の背景が黒なところとこのオヤジの表情の逆にサイコパスっぽいところもホラーさを際立たせている。
なんのことはない、手で料理を食べるときのコツを解説しているコマなのだが、ここだけ現実時間から遊離しているかのような、若干浮いているような印象をうけるのは、単に描写が失敗?しているからだろうか?
吹き出しによって、顔と腕の位置関係の不自然さをごまかし……
ごまかし……
きれていないが、
なんとか成立させている。
あと、腕の後ろにあるカケアミみたいなやつも、なんか怖さに拍車をかけている気がする。古い病室の壁とかに使うやつですよこれは。

そもそもが、これは頭から腕が生えていないと出来ないポーズである。寄生獣というか、クレーンみたいな頭の人じゃないと、こういう食べ方ができないのである。しかし、前のコマで黒背景で喋ってる人のヒゲがついているということは、この人は寄生獣に乗っ取られているのか?

否、この人は寄生獣に乗っ取られていないし、頭から腕が生えているわけでもないが、おそらく、作画の花咲さんも「これはまずい…」と思って、前のコマの背景を黒くすることで、この「変身」に備えたのではないだろうか。しかし、目論みははずれたまま、このような表現となってしまったのではないだろうか。

個人的に、これと同じような「不気味の谷」というか、無理だろ!という姿勢をとっているものといえば、
小林製薬のブルーレットデコラル(便壺用芳香スタンプジェルのこと)のCMであろう。

小林製薬ブルーレットデコラルCM(スクリーンショットは著者)

この構図は無理がある。目線が合ってない、トイレの床を掘らないといけない(または便座のくびれの部分がにょーんと長くなければならない)し、また、友人の家の便壺にここまで寄って笑顔で「うわー」と憧れることじたいがそもそも異常事態である。異常とはなにか?

要は、苦心した末の、というか苦肉の策として、すべてをフレーム内に収め切り、かつ説明しきろうとしたときに、このような「不気味の谷」は発生するのかもしれない。
説明と日常のはざまの不気味の谷とでもいおうか。前後に「これは解説ページ(シーン)ですよ」といったものがまったく入らず、地続きで無理な構図のもの(つまり説明的なもの)によって、日常にあったものがまるで骨や人体構造を折り曲げられて(強烈な暴力によって)存在させられていることになり、これはストーリーなどともまったく異なり、いきなり見えてなかった快速特急がトレーラーの土手っ腹に激突する衝撃である。ここにわたしたちが気味の悪さをおぼえるのではないだろうか。

ちなみにこの小林製薬はラインナップが豊富なので、ブルーレットスタンピーというのもあって、やることは基本同じなのだが、こちらはアニメCMになっていて、トイレも真上から映してあるのでいろんな意味で不気味さは感じない。強いて言えばマスコットモンスターの耳が便座を模してるのが気になるぐらいだろうか。主婦も端に置かれて、菌も擬人化されて、すべてアニメにすればよかったんや!といわんばかりである。

ブルーレットスタンピーCM(スクリーンショットは著者)

だいぶ話がそれてしまったが、それたついでに言えば、小林製薬の製品ラインナップはどうなっているのか、どう管理されて、どのような理念?であのようなラインナップが組まれているのだろうかという心配がある。

スタンプジェルにはスタンピーとデコラルの二系統があり、それぞれが三系統のラインナップを持ち、そのそれぞれがそれぞれの香りのラインナップを有しており、便壺花タイプだけでこれだけあるのに、カランとタンクのあいだに置くことで水を染めて便壺を消臭除菌する「ブルーレットおくだけ」シリーズもラインナップがめちゃくちゃいっぱいあって、人間の好みというものに合わせていくとこうなってしまうのかなぁ…と思うけど、もうちょっと少なくても良くない?と思わなくもない。

話がそれすぎた。


ここからネタバレ


インドにはカレー粉がないという衝撃の事実が明かされ、じゃあカレー粉なしでどうやってカレーを作るのか? ガラムマサラとカレー粉の違いでマイダス王が若干キレ気味になったりします。
ここでアロラさんという板山(大型商業スーパーの社長)が連れてきたインドの人がカレー粉とガラムマサラの違いを教えてくれそうになるが、「待った!」山岡はそれを差し止め、世界味巡りの取材名目でインドに行って、自分たちで確かめよう、と言い出します。


もう疲れてきたな…
この流れが詩とは何か?とか精神分析(または的)とは何か?といった定義の問題とよく似ているな、とおもったのだ。

さっき引用した問答をそのまま詩に置き換えてみてもいいかもしれない。

岩成達也という人が、確か「ひとつの詩にはひとつの書法が対応する」的なことを書いていたような気がして、これはインドにカレー粉がないことと同じような意味合いにおいてではないか?と。

輸入概念、つまりこの場合カレー粉はイギリスが毎回調合(書法)を編み出すのを手間だとおもい、スパイスを調合したものをカレー粉として発明、販売した。これは日本に輸入され、日本ではカレーはカレー粉を使って作るものだという思い込みが発生した。
なので、インドにはカレー粉がない、ということになる。

今パラパラ読み返してるけど、二木まりこが指輪を左手の薬指につけてて「やべー」とかおもってるところ

対決中、山岡が漏らす「ただ、個人的にいうと、ターメリックとクミンと胡椒と唐辛子は欠かしたくないけれど……(p176コマ目)」は、詩に置き換えてみると「ただ、個人的に言うと、卓抜な比喩表現、彫琢された言葉と韻律、端的でイメージ換気力に優れ、普遍性があり真理を探究し、感動を与えることは欠かしたくないけれど……」という感じになるだろうか。

詩はなんでもいい、特に定義はない、よくわからない。これはインドにはカレー粉がないこととよく似ている。インドでは毎回スパイスを自分で調合してカレーを作っていて、これとこれのスパイスが入っていないからカレーじゃない、という言い方はしない。
言うとしても、先の山岡のような「個人的には…欠かしたくないけれど」程度の控えめな好みや定義の表明にとどまっていたほうが、わたしは、いいなと思う。つまり、あんまり詩は真理を探究したものだとか綺麗な韻律を有したものだ、的な強迫的な信念はなんか、疲れるな…と思う。

水カレーでもいいじゃない、とは思う。でも、個人的には…とつづける。あと、もちろん、水カレーまで「こ、これもカレーなんだょね?」と言いながら無理して食べる必要もない。これはもう、お粥じゃん、といっても構わない。水カレーVSお粥
こうなってくると、子供が描いた動物の絵を言い間違えて子供がかなしくって泣けてきちまう…みたいな話にも通じてくる。
せっかく水カレーつくったのにお粥って言われた…かなしい…死のう
っていう人がいるかもしれないので、基本的にはその人が言った定義を尊重しましょう。「で?何?こんなのカレーじゃないじゃん、お粥じゃん」とコーナーに詰めていく性格の持ち主はちょっと心をひろ〜く持ちましょう。

精神分析との絡みでいえば、輸入概念、アレンジ、というあたりだろうか。インドからイギリスにカレーの概念が入ってきたとき、スパイスの調合作業はあまりにも手間で現実的に厳しかったのでカレー粉というプリセット(縛り)ができた。縛りの状態を輸入した日本はインドでその概念(カレー粉な)がない、都度各自でスパイスを調合するもののことをわたしたちが「カレー」と呼んでいるにすぎないことを知る。これは、今で言うところの対話によって統合失調症が治るというのはあまりに人間的に自然なセオリーであって、逆に今までの精神的な療法や概念じたい(スパイスのプリセット、見立て)が非常に人工的な人間観を作り上げていったという話になる。詩にも同じことが言え、詩というものはこういうものだ、と思ったとき、それはカレーの定義を忘れていることと同じであって、詩というのは毎回スパイスを調合して作るものであって、そこには「個人的には欠かしたくないもの」はあるけれども、厳密な、誰もが認めるような定義は存在しない。

ここまで書いてきてあれだが、これはまだ「口語自由詩」と呼ばれるものの話しかしていない気がする。じゃあ、この口語自由詩もまたカレー粉にするのか、そして、近代詩の七五調のもの、また俳句や短歌、またソネットやルバイヤート、漢詩、ラップ、リーディング等々…

これらはどうなるのか

今さっきの概念でいってしまうと、俳句はクミン縛りがあるとか、そんな話になりそうだけど、ちょっと違う気がするのだな

わたしはカレー粉のたとえの以前、詩は個々人のブームの提出物、というのを定義にしていたことがある。ブームなので(表現が)時制や人称を超えるから、今の時代にもやけに古めかしいと思われる語調の人がいても構わない。提出物だから、自分が書いたものとは限らない(AIやプログラムによる生成も可能。ただそういうブームにさしかかった人の挑戦的な提出物、ということになる)。個人的に欠かしたくないポイントはブームであり、提出物であること。そして、これは発表?(発表とはなにか)直前までをブームとすることができる。つまり、冷めてしまった詩を提出するあなたは、その詩を書いたときのブームは過ぎたのかもしれないけれども、その詩を提出するブームは今まさに迎えているのであって、ブームじゃないわけじゃない。

といいつつ、わたしはイラチだし、大味なものしかわからない人間である。書いているものを読めば、だいたいわかるだろう。

全然話は変わるが、昨日考えていたこと2として、怪文書をマネタイズする方法ってあるのだろうか?
ここでいう怪文書は、ある人を貶める目的で周囲に配られるビラのようなものではなく、わけのわからないこういうぐずぐずした文章のことである。

障害者福祉のアートセミナーで、彼らの描いた絵を買い取って飾ってもらうようなことや、図柄をプリントして商品化したりしているのを見て、障害と健常のグラデーションについて考え、境界知能について考え、そして、中途半端にものを書ける人間が表してしまうものの価値というものが一番無価値なのではないか?ということを思った。

つまり、絵というパッと見てわかるが動機は読み解けない、本人もこだわりがあるのはわかるがそれをわたしたちに腹落ちさせるほど言語化を行わないジャンル。

対して、言葉というものはパッと見てはわからないが、読んでいくと、何かその人が書いていたことがわかってくる。ここに本人のこだわりがあって、腹落ちさせるほどの言語化が行われていない場合、これは、なんとかしてマネタイズできないものだろうか。なぜ障害者福祉の世界で絵がネゴシエイトされていい値段で売れているのに、境界知能の人間の書く不平不満や批判、あるいは芸術?かもよくわからない変な文章は無料のギャラリーにすら飾られていない。←これはわたしが知らないだけかもしれない。

ギャラリーで、日記を見た。かれらの日記はまずフォルムとして、その常同性や動機が読み解けないところに、つまり絵のようなものとして飾られていた。「では、そうじゃないものは?」と思った。そして絵日記は、絵にも独特のこだわりが見られた。

ウェビナーでは「アールブリュットとかは、あまりいいたくない」と言っていた。理由は忘れたが、厳密にはそういうのではない、ということだった。

オリンピック、パラリンピック、デフリンピック

マイナースポーツ

ポエトリーリーディング

アウトサイダーアート、アールブリュット

境界知能

環境調整、合理的配慮

援助希求性、福祉、アート、交渉

援助希求性の乏しさによって社会的に自立している。自立していることによって、アートとしての交渉窓口が封鎖される。そして悪態を吐き、さらに遠のく。居場所がなくなる。釘に弾かれて落ちていくパチンコ玉みたいなものである。

初期の援助希求さんはかわいいけど、40巻以降はちょっと…
俺の援助希求も歳をとる

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