解釈一致と脳内再生余裕と洞察と観察力と物化

あさ。やすみなので、ちいかわ2話まであがってるのを何回も再生して布団にくるまっていた。声かんぺき。うさぎは声優さんで、ちいかわとハチワレは子役だが、コメ欄にも「解釈一致」とあるように、ほんともう、この声しかない感じ。

ここでちいかわの話から離れていき、「脳内再生余裕でした」っていう言葉があり、これは、なんだっけ、どういう意味だったかな、なんか、こう、ある一定のキャラのある者に対し、架空の、それっぽいシチュエーションややりそうな行為等を文字で書きしるしたとき、そのイメージ喚起力が相当以上認められる場合に、この表現が使われるのではないだろうか。

洞察というのはどっか、マーケティングとかで「人が欲しいものではなく、人が欲しいともおもってないようなやつを見つけるのが『洞察』ですキリッ」みたいなのを読んだ気がして、対して観察力というのは観察して気づく用のパワーである。

物化というのはなんか蝶ちょとおっさんが夢で混濁混線したみたいな昔話があるけどあれはもともとは世界が二個あるかもしれないとかおっさんと蝶ちょが裏でつながってるかもしれないとかそんなレベルじゃなくて、蝶になってるときとか、人間になってるときとか、どっちが夢で現実で、とかそんなレベルの話はしてないみたいなことらしく、もっとバスッといかなきゃいけないみたいな、人智超えてる感じのニュアンスだった。

要は蝶々になってる世界と、おっさんになってる世界があって、それを往来している、または、おっさんの意識が蝶に乗りうつるとかまたその逆が起こるとかではなく、もうおっさんのターンのときはおっさんのターンで世界もひとつそれしかなくおっさんに蝶のターンの意識みたいなものや予感めいたものすらまったくなく、蝶のターンのときはおっさんの記憶もなければ世界もないし、そもそもおっさんの世界というものが意識されないとかではなく、そんなものはもともとなかったっていう話になる。たぶん「話になる」とかすらないぐらい別々、いや別々っていう言葉も使えないぐらいの感じ。「ああ、こういう感じね〜」っていう想像やニュアンスが通用しないあるいはおよばないもの。ある意味では現実界とかと近いのかもしれない。でもなんかそれに流転、変容するニュアンスが混じってるというか。切り替わってるっぽいけど全部現実界っぽいみたいな。知らんけど。

解釈一致と脳内再生余裕と洞察と観察力と物化のどれが尊いのかと。べつに比べる物ではないが、難しさの難度(あれ、日本語がおかしい…)、まあ仕事もやはり業務の達成難度や責任や負荷にあった役職とインセンティブをいただかなければなりません。
そういう意味では物化とか洞察というのは激ムズで、これはなんか僥倖みたいなもの、スーパーカーでいえばLuckyみたいなもの。しかも当人が幸せかどうかもわからない、ある意味ギフテッド的なもの。言葉をたくさん操れて楽しいかっていうとそれで悩みすぎて死んでる人たくさんいますからね。とはおもう。
で、解釈一致と脳内再生余裕はある程度残業すればできる感じで、観察力が一番手作業というか、一番エッセンシャルだけどなんか今の世の中では時給で買い叩かれる、世知辛い、尊さとはなにかと叫ばずにはいられない昨今、しかし、手作業が速いやつが管理職になっていくのかというとそうではなく、それはそれ専用の向いている人や、管理職っぽくやる感じになっていかなくなり、それこそ無能になるところまで昇進するとおっしゃったどなたか、マーフィーの法則みたいな外国のかたがおっしゃった、あれ、あれみたいなものです。

観察力を鍛えれば洞察力も上がるのかといえば、たぶんちょっと上がるけどもっといい鍛え方があり、もっといえば最初からの備え付けの性能に依ったり、家に本がどんだけあって家族がどれだけちょび髭で巻髪でオーラを放っているかとか、学校の先生がどれだけ教卓に呼びつけて生徒の尻を叩かないか、学校の先生がどれだけ忘れ物をしたときに忘れた物で生徒の頭を叩かないかなどに懸かっているといっても差し支えありません。

物化とかは完全におくすりとかバイク事故とか餓死寸前とか臨死体験でいくとこなので、これもたぶん基本無理でしょう。

さいごに、解釈一致と脳内再生余裕とかはこれは人と一緒に組んでがんばればなんとかなるでしょう。これはなんとなく戦略的にやっていけばふつうにさっき言った無能になるところまで昇進するシステムでなんとかやってけるとおもいます。
つまり世間と呼べるほどじゃないにしろ、それなりに身近な特定多数のコミュニティに包摂され、互いに解釈とか脳内を補いあって生きるという道です。
というかふつうだいたいそうで、そこから無理にこぼれるから詩にいくみたいなとこもある気がします。本物思考的な。で、そういう人が洞察とか物化できるのかといえば無理で、なんか結局餓鬼界畜生界あたりをさまようはめになるので人生無駄っぽくなることもあるのでよしたほうがいいのかもしれないとはおもいます。そんなんだったら、さっさと誰かに相談して編集してもらってISBNとって本出すとかしたほうが成仏できるような気はします。

だから、わたしたちの目指せる範囲の詩っていうのは、観察力以上、解釈一致・脳内再生余裕未満のあたりを手癖でなんとかそれっぽさを補いながら、さまよえる霊魂のように、ふわっふわと永劫に、このへんを、ほんと、ふわ〜っとね、ぷかぷかしているのでしょう。

ちいかわとかロペとかバーバパパとかみてても、やっぱり詩はもう飛散して、いろんなものにまぶされてるとしかおもえない。今詩にできることは立憲民主ぐらいしかない気がする。ネットであえて言葉のところに来るのはそういう意味でも無理にこぼれた人が多いのかな。

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