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VRについて、しゃべるていで書いたメモ

しゃべるていで考えたこと1



先日apple vision proという
iphoneを出してるアメリカの会社のゴーグル型の
VR、デバイスを買いました
一ヶ月ほど使ってみての感想や考えなどを話したいと思います

まず、こういうゴーグル型のものですが、
VRとかAR、あるいはMR(デバイス)とかいわれます

VRとかARって何かって言うと、たとえば、ポケモンGOってご存知でしょうか。スマホで遊ぶゲームなんですが、現実の位置情報に紐づけて、例えば今◯◯にポケモンがいるぞみたいな感じで実際その場所でスマホをかざすと、現実空間の中にポケモンが見えるというのがARです。他にも、ある地点でスマホをかざすと、何もない場所に看板が見えるとかですね。
現実の空間に、そこにないものを付け足すのがAR、拡張現実です。

VRというのは、景色そのものが現実じゃなくなる、たとえば今私たちがいるこの部屋を砂浜にするとか、あるいはもっとCGとかゲームみたいな景色、空間にするとかですね。それがVR、仮想現実です。

(両方できるというか、それら両方使えるのがMRですね)
(アップルはあくまで空間コンピューティングという言い方をしています)

で、使ってみて思ったのが、視覚が味やにおいに近づいてるということです。

例1
飲み会の後半とか、だらけてきて、誰かがスマホをいじってるのがチラホラと見える。家族にLINEしてるのかもしれないし、明日のスケジュールを見てるのかもしれない、野球の結果を見てるのかもしれない。
別に誰と何を連絡してるかは関係ないけど、何かしら外部と情報のやり取りをしてるのはわかる。
場所に拘束され、中座することもできず、いい感じに酔ってきて、飲み会も空中分解気味で、あとは締めの挨拶を残すのみ。
手持ち無沙汰だし、話すのも退屈なので、外の情報を見てみたり、外の人に帰れそうな時間とか、なんかてきとうなことを打ってるんだろう。


例2
急に声がして「えっ、何?」と思ったら、その人は独り言みたいに喋りながら歩いていった。よく見ると、耳にイヤホンをしていて、「ああ、この人はマイク機能付きのイヤホンで誰かと電話してるんだな」ってわかった。ちょっと迷惑。

例3
誰かがスーパーマーケットとかで、スマホの画面のほうを商品棚に向けて動かしている。スマホからは声がして、スマホを動かしている人は、その声と会話している。スマホの声は女性で、動かしているのは男性。商品棚は牛乳とかヨーグルト。女性は何らかの事情(体調を崩している?)で動けないので、男性に買い物を頼んだが、男性は何を買えばいいかわからないので、スマホのビデオ通話機能で女性に買うものを選んでもらっているようだ。

これらの例だと、まだ文脈が想像できる。私の知らない外部と情報をやり取りして退屈をしのいだり、連絡を取ったりする。手にもったデバイスの画面や、デバイスから出る音を通じて。
これらの使い方は、(早くも)社会に根付いているし、私たちも自分がそのようにする気持ちはわかるから、共感できる。

VRデバイスだと、視覚そのものが完全に個人のものになってしまう。
手に持てるサイズの、デバイスの画面の中だけの視界と、視界すべてが個人のものになるデバイスの差はどういうところにあるか。

注:ミラービューイングはわかりますが、ここ では割愛


(話が飛ぶ。あいだ考える)


しゃべるていで考えたこと2



視覚がデバイスの中で完結するのは、味が口の中で完結しているのとよく似ている気がします。ただ味は、目の前で分ければ、同じものを食べたり飲んだりしていることになる。味が薄いとか濃いとか、辛いとか甘いとか。あるいはその感じ方の差もわかる。
そのとき「まずい」と言えなかったりすると、そこでの認識のズレは生じるし、そういうことはよくある。よほど親密じゃないと、ストレートにいうのは難しい。

マイク付きイヤホンでしゃべりながら歩く人にちょっとびっくりする話と、飲み会のぐだぐだの中、LINEを打つ話は、
たぶんVRデバイスがメガネとほとんど変わらなくなった時に、
融合するのだと思います。
何してるのかわからないことがわからない。
ある種のスパイみたいになってしまう。
それが何に対するスパイなのか。

鈴木謙介という、今テレビ見てないのでわからないのですが、おはよう朝日ですに出てる人がいて、その人は社会学者なんですが、彼が20数年前?に書いた本に、「多孔化」という概念が出て来ます。

これは、個人の圏に穴がたくさん開いて、いろんな情報が直接飛び込んでくるという概念です。
これはさっき言ったポケモンGOの話だと、なんか道端に人々がたむろして、スマホをいじってるけど、いったいあれはなんだろう?という状態。

また、喫茶店で対面しているけど、相手はスマホで雨雲レーダーを見ていて、急な雨が降るのを知っているけれど、自分は教えてもらえなくてわからない状態(そんな悲惨な状況、ないとは思いますが)。

あるいはカーナビで渋滞情報を知ってる人と知らない人の差、など。

(あとおまけで、おそらく食べログで出来たであろう、地元で知られていた飲食店の、急な行列)

昔からスタンプラリーも天気予報も渋滞情報も(行列も)あるけれども、それらがたったひとつのデバイスのアプリひとつで入手できるようになった。

今、目の前にない情報が、さまざまなところからスマホに飛び込んでくる。それ(情報の内容)は人からは見えない。人から見えるのは、あなたがスマホをいじっている姿だけ。

まだ、これらの状況は、内容の詳細はわからないけれども、彼らのスマホやマイク付きイヤホンを通した行為から、ある程度の推測が成り立ち、常識の範囲内(共感)に落とし込めるのが現代だと思います。
VRデバイスは、行為を推測して共感に落とし込むには、可能性が広すぎて、ハックされた視界で相手が何を見ているかほとんど判別できない。いささか不気味。すべてがあり得る。
ただ、さらにデバイスの小型化が進むと、そもそも相手がデバイスをつけていることすら分からなくなる。また、処理能力が上がったり、表示機能が高精細化していくと、付けている人も、その視界の改変(処理)に違和感をもたなくなる。つまり社会とのコンフリクトや摩擦が、デバイスの利用者側と周囲の環境で勝手に調整され、何も起こらなくなる(と思う)。

突飛な例を出すと、
例えば会社が辛すぎるので、周りを全員ゆるキャラやゲームのキャラに置換して表示したり、パチ屋だけ景色の中からミュートするとか。


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散歩しながら考えたこと



結論は、将来的に視界がカスタマイズされ、相手がそれに気づかない状況が発生する。
今は主体にアバターを被せてVtuberとかミー文字で顔だけ隠した動画を投稿している演者もいるが、これからはこれを相手に気づかれないうちに現実に被せることが可能になるだろう。
これは人前でのスピーチで緊張する人に「目の前の人間たちをナスとかカボチャ(とにかく野菜)だと思え」っていう、元ネタ不明の慣用表現があるが、これを現実として可能にする。そうなってくると、こういうARグラス的なものは、精神、ひいては行動の補助具としての役割を帯びてくる。
ARグラスで受験問題を外部で解いてもらおうとしてバレた話があったが、あれは自分の見ているものを外部化し、公開したからであって、視界の変容(による精神的補助)を自分の内に秘めたまま利用した場合、今まで精神論(気の持ちよう)がツールによって乗り越えられることになる。ざっくり言えばポジティブとかネガティブとか、頭の中で切り替えたり、受け流していたモードのようなものが、現実的な視覚への介入によって補助されるようになる。
そこでは、「気のもちよう」のありかたも変わる。ポジティブとかネガティブというものの範囲や領域も変わるだろう。認知行動療法の認知へのインパクトもおそらく大きいし、とても役に立つ気がする。というか、現在、認知の歪みと呼ばれているものに適切に介入することで、現実の社会生活への困難や適応の難しさが緩和される可能性がある。また、特定のものや存在をミュートする機能なども考えられる(ただこの場合、ミュートできるものは衝突回避のために別のものに置き換える必要があるので、SNSアカウントのような、言語存在の1単位へのブロックやミュートのようにはいかない)。
思いつきの造語だと、現実の視界への置き換え(すり替えによる視界ミュートやブロック)は、RR(リプレイスメントリアリティ)みたいな感じになるだろうか。
ただ、倫理的(それがいいのかわるいのか)、福祉的、文化的にどういう意味をもつのかはずっと議論され続けるだろうと思う。
私の思いつきとしては、文化というか、スラングとしての「モブ」が、さらにリアルな実感として処理されるであろうということ。「関係ない人間」は、仮想現実的に処理されて、さらに「モブ」具合に磨きがかかるだろう。また、中高年は、そのように処理されることを、すすんで自ら望むようになるかもしれないし、その可能性は高い。
これからの視覚への補助具は、自分自身の加害性を認識する人間の、「完璧なモブ」への変身願望と、親和性が高いようにおもう。
ときどきSNSで見かけるハラスメント類型の「存ハラ(存在ハラスメント)」というやつ。メタ認知で自身の潜在的な加害性を先取りし、加害妄想で先に取り締まられたがっている状態の人間にとって、このような補助具によって視覚から消される(邪魔にならない)ことは、このうえない喜びであろう。ただ、これによって、個人が「元に戻れる」のは、よほどの親密圏か、ひとりでいるときだけになってしまう。


昼ごはん食べながら考えたこと


ARグラスで相手を見て、年収などの属性をみる、信用スコアを見る、つまり「値踏み」を視界の中のデータで実現すること。
今でも、マッチングアプリでスワイプして人を見送ったり選別しているわけだが、目の前にいる相手に気づかれず、同じ場を共有しながら、それらが済んでしまうこと。面接とか書類選考とどう違うのかとも思うけど、もっとみんながふつうにカジュアル(身近で手軽)にそういうことをやっていくということだろう。

また、人間の行為のうち、頭の中で行なっていた精神的な切り替えの一部が視覚情報の処理によって外部化されることによって、人間の行動へのハードルは相対的に低くなるかもしれない。また、同様の機能によって、行動による迷惑が苦手な人間の行動へのハードルも低くなる可能性がある。

人間の社会活動におけるポジティブとかネガティブの位置が少し変わるんじゃないか。また、気持ちで切り替えるしかなかったものが、道具でフィルタリングすることで代替するのではないか。

ただ、「行動」に対する比重が今にも増して重要?になるというか、(それしか)人間としての優位性みたいなものがなくなってくる気がしていて、それが良いことなのかどうかは、正直、判断がつかない。



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