0613

きのうのつづきみたいな感じ。
わたしは昔ネットで読んだものの原典をときどきおもいだして探すことがある。
というよりは、行き当たる。行き当たるように読んでいってる気がしなくもないが、「これはあのときあの人が言ってたあれじゃないか?」みたいな感じで、唐突な邂逅感にうれしくなってしまう。(ひきこもってたし、監視が厳しかったので本も置けず、今も働いてるだけのSNEP先生なので、家から出るのが基本しんどい。でもまあ監視や金の無心はなくなったので本が置けるようになっただけましだが、20年ほど、ネットだけを見て過ごしていたし、2005年〜2015年あたりの10年はネットもろくに見れてなかった。

わたしは対人恐怖?というのか、視線恐怖かつ脇見恐怖だったので、はてなダイアリーで「儀礼的無関心」というキーワードの出てくる日記を漁って読んでいた。
なぜなら、わたしは対人恐怖というものは、その「儀礼的無関心」のやり方を忘れてしまったせいで、すれ違うたびにギクシャクしてしまうような状態だと思ったから。でも、あの当時の「儀礼的無関心」はインターネット上の振る舞いについての話だったような気もするから、わたしは結局、儀礼的無関心の例(電車や街でみんな知らんぷりしてる、みたいな)を読むだけで、結局解決法は見つからなかった。
簡単にいうと、飛び方を忘れたキキ(魔女の宅急便)みたいな感じ。
それでも「だーかーら! その儀礼的無関心ってのはどうやってやるんだったっけぇ?」と思いながら必死で読んでいた。
そこで色々、儀礼的無関心に留まらず、他にも気になるワードを芋づる式に読みふけっていると、森田療法とか、土居さんとかコフートが出てきて、あとはひきこもりのことなどを読んでいた。
その流れで精神分析的なものもあり、ひきこもりのサポートキャンペーンにも斎藤環さんが出ていたし、エヴァも精神分析的とか言われてたし、なんだかんだでたぶん世代的にそういうのの関心があったのだろう。
ただ、当時はもうちょっとかっちりした答えが見つかるというか、定式や解決法がでてくるのだろうみたいな感じの気持ちがあった気がする。
で、斎藤環さんがラカンとよくおっしゃってたのだが、当時はラカンのことはそんなに載ってなかったというか、あったとしても、あんまりよくわからなかった。その流れでひきこもってテレホーダイで色々よんでると、時々ディシプリン(規範なんちゃら?規律なんちゃら?)とか書いてあって、なんじゃそりゃ?とか思ってた。
だから今思えば、自分のひきこもりの原因とおぼしき対人恐怖(これもなんか、そのままローマ字で文化依存症候群としてカテゴライズされてて、世界にもなんか特定の文化圏で発生する変な病気の一群があるみたいなことを最古ドクターあばれ旅を読んだりしてた)を解決するために、精神分析的なものからポストモダン?みたいなところに近づいていたが、わたしはそこへはいかず、詩のほうに行った。で、結局、詩のほうにもそういうのはあったのだった。

そういえば、当時わたしが鈴木志郎康さんに一生ついていきます!と思ったのも、当時、決死の思いで図書館に行って現代詩文庫の鈴木志郎康詩集を借りてきて、裏表紙を見た時、短パンいっちょで目を閉じた鈴木志郎康さんが歩いている著者全影が載っており、「ああっ!この人は視線恐怖過ぎて目を閉じながら歩いてしまっている!」と勘違いしてしまったからだ。当時はカメラが好きなのも、現代詩文庫の表紙で目を閉じているのも、視線恐怖だからなのだ、この人も対人恐怖症なのだと思い込んでいた。だから、そのとき鈴木志郎康さんは光り輝いていていた。

わたしはそんな感じで、ネットでふぁーっと読んで気になってから、ぼんやり気になり続けて、その本文や、その単語や文書の原典に出会うのが20年後であるとかいうことはままあるのだった。

20年前はこんなにAmazonがなかった(あったんだけど今みたいなAmazon感はなかった)し、あったとしても金がなかったし、今よりも、ずっと外に出るのが怖かった。対人恐怖がひどかったし、図書館にも畏怖&畏敬の念を抱き、あまり寄り付かないようにしていた。それに、なんとなく「本は買うべきもの」だと思っていた。外は怖いものだとおもっていた。

まぁ、今は今で怖い。職場と家には決死隊がフックをつないだから、その間の移動はできるものの、そうではない、中年が、平日の休みにそのへんぶらぶらするというのはなかなかにしんどいものがある。
最近はずいぶんと人のほうが減ってきたので気楽ではある。
ここ2、3年は非常にもっと楽だった。
よかった。
最近は、なんかずっとあるだけだった建物にシートが被せられ、数日すると空き地になってるのを見かけることが増えた気がする。
景気が回復してる、というのか、人が死んだというのか、生え変わりというのか、中国資本ガーなのか、ようわからんが、まあ建物が消えてる。

建ってみるとなんじゃそりゃみたいなことも多いが、とにかく自分の肩身が狭くない世の中になってほしいと願うばかりである。もちろん自分のほうでも意識過剰にならないように注意はするものの、世間、外の空気ももう少し訝しまないようにしてほしいなぁ、とは思う。わたしはなんだかんだで追い込まれている、という気がいつもしている。けど、道ゆく人を見ればわかるように、そんな事情は外からはわからない。
きっしょー、という女子高生の無意識下の焦慮(駆動原理)みたいなものもわからない。
二、三人で歩いているだけで常時贄を必要とする関係性というものの地獄もわからないし、そんなものはないのかもしれない。
まあでも、時間が経つと、ああしんどいよね、とは思えるようになる。
私に打ち上げ花火を打ってきた女子高生も、私を10年殴って金を取り続けた男も許せはしないが、まぁ全員こまってたっちゃこまってたのだとは思う。私は打ち上げ花火を横向きに向こう岸から打ってくる女子高生3人組に笑われているとき、私はベンチに座ってひたすら後頭部を陽に灼かれながら一心不乱に蟻を踏み潰していた。ある意味女子高生は蟻を助けたのだと思う。
「ねーねーあっちにいるあいつ、花火で打ってみよーよ」というノリは正直怖いが、まあ今となっては懐かしいと言わざるを得ない。打たれてわたしも猫背で「っす、っす」とか言いながら小走りで避けていた。みんな、結局は、生きるのにこまってるし、生きて自然に動いていくとそうなってしまう人たちというのがいるのであって、まあしゃあない。



選挙も基本その方向でいくようにする。まちがっても若者のために、みたいな選び方をしないように慎重に政党を選び、態度は若者のためにって感じで好々爺を演じ切りたい。というか、今も世の中現状そういうかんじだろう。それをつづける。
自分がまっとうに生ききれるようにしていきたい。
地域、町内、所属先、床屋、最近消えた母、もっと前に消えた父。
表札のない家にひとりで住んでる。
今たまたまpillowsのカーニバルを聴いてて書いてしまった。
まあ地域である。平日そのへんをぶらぶらしててもいいほどの、「そのへん」への信頼を勝ちとればいいのだが、その方法がよくわからない。植樹したりすればいいのだろうか。旗を持ってホイッスルを鳴らして毎朝信号のない横断歩道で頑張ればいいのだろうか。にしても、毎朝通勤時間帯に車道をひとつ塞いでまで演説をする政党というのはいったいなんなのであろうか。もう完全に政党のノルマと事情であって、わたしたちなんか関係なくやってるとしかおもえない。



車が走ってるのを見ると、ああみんなワープしたがってるなと思う。岩瀬敬吾ふうにいえば「ごみのような中年時代をまいていく」ということになるだろうか。要は身体を居心地のいいアミューズメントなプレイスにワープさせピンポイントで出現しピンポイントに去ることを良しとする世間の目というものがまだまだこの世にある以上、雨降って地固まる的な、押し出し成形で夫婦いっちょあがりぃみたいな日本はどうかしているとしかおもえないので、まぁワープするための子供だったり、パスポートとしての子供が必要だったりする。
子供というのは日本のためにいるのではないし、まして親のためにいるわけでもなく、労働力の再生産とかでもないし、輪廻でも業でもないし愛の結晶でもない。
パスポートというか、単に世間?あるのかな世間、がゆるやかな許認可制を敷いているがために存在しているのが子供である。クレヨンしんちゃん氏が、かつて「子はかすづけ」と言ったが、たしかにそうで、子供はけしてそんなに、そこまでいうほど大事なものではない。子はかすづけではなく、子はピタパ、とかなんか、そういうキャッチコピーというか、非接触式カードのようなものを得る感触が得られる、体験ができる、経験ができる、機能を試せる、それが現代日本でわたしが子をもとうとしたりする時の正直な態度になるだろう。だからいやなのだ。

いや、もっと子供にはもっとインパクトがあって、なんか転向するのかもしれないが…。
もうそういう年齢は過ぎた。かといって養子も…
まぁ、やっかみ半分である。

人生にセーブがもういっこあるならそういう人生があっていいのかもしれないが、多分、いろんなことでキャパオーバーになって鬱になってきて気がついたら畳んでたはずのバスタオルかなんかで顔をとんでもない力で抑えつけてるとかになりかねないので、わたしにはもう優しさがないのである。
だから子供というのはきらいじゃないけれども、優しくもできないし、近づくと子供に影を落としそうなのであんまり近寄りたくないなぁっていうのもある。
というか、そんな人は現れないと固く信じて死んでいく感が実感としてある。まあ江戸とかだとふつうっしょみたいな気持ちもある。



そういうところ(2022年の日本国)に情とか愛とかいうものは基本的に存在しない。昔から連綿と続く係累と眷属の関係がまっちゃんの素の顔で存在しつづけるだけの歴史観があるのみであり、まっちゃんの言えてない「がるるぅ」に対し、浜ちゃんがハガキで「なんでやねん」とツッコミを入れるのみである。

とはいえ、わたしは子供嫌いにはなりたくないし、子供の騒音で怒鳴るような人にはなりたくないなぁと思うし、恨出生主義にもなりたくないけれども、ちょっとぐらい闇落ちさせてくれてもええやん?と思わなくはない)今回は、荒川洋治さんの"おかのうえの波"という文章がそれだった。

 〈私の文体〉について書くようにとのこと。ひよっこのぼくにも文章を書くときの心がけのようなものはある。

 1.知識を書かないこと。
 2.情報を書かないこと。
 3.何も書かないこと。

 ぼくは文章を書きながらこれらの条件を肝に銘じ「いい文章になりますように」と心からお祈りする。

荒川洋治「文学は実学である」みすず書房 p58
※本文の箇条書きは丸付き数字。

マウントするなと言ってる感がひしひしと伝わってくる。というか、ふつうに「じゃあ、何も書けないじゃん」と思う。っていうか、3で何も書かないって言ってんじゃん。

だが、こういうのは嘘というか、基本気にしなくていいのである。わたしはもういいのである。ゲームセンターあらしみたいに「いっけぇぇぇ」っていいながらキーボードのEnter弾いてればいいのであうr。

ぼんやりと読んでみると、なんか、こう肩の力を抜き、しゃちこばらないようにしぃやぁぐらいのニュアンスを感じる。
こういうエッセイの時の荒川洋治さんはふっわぁ〜としていて、なんかいっぱい読みまくった末のふっわぁ〜なのですごい憧れるのだが、まあもうそういうのは無理なので、自分に合ったギアというか位相をえらびましょう、無理、背伸びはしないようにしましょう、自分をもっと見つめ直しましょう、という感じを感じるのみでいいのだと思う。

そういう意味では、わたしは不誠実かつ不義理を重ねまくることで文章を蹂躙しつづけ、心の中で積み木がずれまくってるのを身体ひとつで支え続けて「もう全部消したい!」みたいな衝動を常に保ちつづけながら抑えつづけている。

これは諦めの態度に近い。もうやっちゃってるんだから、というか、過去の自分との整合性がなさすぎて、ずれて崩れそうになってるように見えることが多々あるのだが、それは大抵の場合、幻想であって、ふつうに考えたら、その整合性というのは、なんかわかってないくせに恥ずかしいこと言ってんなぁ…みたいなことであって、そこを直そうと思うと全部直さないといけないからもう全部消した方が早くね?となって消しちゃうのである。

これは荒川さんの箇条書きによればたぶん1と2に抵触してるからで、簡単に言えば後ろを振り返ったときに「え、だれ?」とか「自分ってば何もわかってないのに何書いてんの恥ずかしー//」みたいになるような文章は書くな、みたいにおっしゃってるので親切である。そんなんばっかり書いているとあとあとしんどくなるっていう話である。
そんなんを支えるのはひとえに自分の身体ひとつであるから、余計に重苦しくなる。
かといって、ぎりぎりを攻めないのもおもしろくないのも確かである。言葉というのは盛ったり嘘をついたりできるものであるし、知ったばかりの言葉をイキって使ってみたくなったりするものである。
今ある自分のこの背伸びしたり知ったかしたり隙自語したい気分を載せないではいられない、のるしかないこのビッグウェーブに、というやつである。

で、それをやると、あとで「厳しい…」ということになる。よっぽど文章の骨格というか、体幹がしっかりしてる人じゃないと、後悔しか残らない気がする。
そういう人は、書く前、書く時、書いた後でも、なんか「ここはふつうに考えて(人にとって伝わらないから)要らないでしょ」とかいうのを冷静に、当初決めた範囲内に収めきるパワーというか、膂力を持ち合わせていることが多い。収めきり、かつリズムも残し切るというのか。構成をぼんやりと構想しながら書き、書きながら構想し、あんまり当初の落下予測地点とは違っていたとしても、そのあたりまできちんとある程度、商品のように閉じ切ることのできる人、というのか。
そういうのはいいなとおもうけど、わたしはもう閉じ切ることができない。何回も同じような場所をなぞってなぞって濃くしていくように、何度も似たようなことを繰り返し書き、そうやって抽出していくことでしか、自分にとっての要点を見出しきれないし、そこにまた徒長する文章が現れても、それを排除しない。徒花、徒長、徒らなものに対する保護というか、そういうものがあっても決して手折らずにぜんぶ載せ切るというほうが自分にとっては、自分の実人生にとっては意義があるというのか、それを全部読んでもらおうなんておもっちゃいない。ただ、一部でも引っ掛かればそれでいい。そっち方向からの「そこらへんに咲く花のような」見方、そういう配線やUSBの線ばかり集めた片付けボックスでぐっちゃぐちゃになってるところから一瞬だけ目的のものが見つかるような、そこに自分のなかの他者が見つかるような怠惰な姿勢、それを堅持して死にたい。それはある。
そうじゃないとわたしは「ちゃんとしたもの」に殺されるという感じ
がする。



おそらく最初から不整合の芽のようなものを摘んでから、同時並行的に摘みながら書ける人というのはいるような気がする。リズムだけでいって、あとで息切れして最後のほうが「てやんでぃ!こちとら江戸っ子でい!」みたいな文体の人も、やはり時々昔の雑誌というか、本を読んでてもたまに見かけたりするし、そういうのをみると、妙に親近感が湧く。

まとめ切るみたいな、整えるところとそのままにしておくところの選別、息抜きの仕方、肩肘を張らない極意みたいなやつ、簡単にいえば感情的にならないとかだが、やっぱり書いていると途中からドライブがかかって、勝手に個人の、わたしだったらCMソングとか聴いてる曲とか、駄洒落や地口のたぐいが頭の中で渦巻き始め、どうせ誰も読んでないんだったら…とおもって、好き放題書いてしまうところがある。だいたいすぐ無意味な副詞やクリシェの重複、あるいは慣用表現の両論併記、また、人ではないものに対しfeat.などを使ってしまいたくなる。そしてじっさい使う。
それは面白そうだからであるが、それで実際おもしろかったのは自分だけで、読んでる人からすれば面白いわけがない。
一応話が進んでいるのであって、その腰を折ってまでfeat.とか入れる理由がない。いや、理由はある。自分が書いててここにfeat.が欲しいから、である。
これは一番大事なことであり、なにか、こう伝えたいことというか、はじめからあったかのようにしたいときには、泣く泣く別れなければならない表現である。他人はそこまでfeat.が読みたくて読んでるわけではないし、自分自身もよくよく考えたらそこまで必死になってfeat.を死守したり擁護する理由もないっちゃないのだ。

でも、これをやりすぎると、最初に頭の中にあった、というか、書いていて頭の中で跳ねてるやつを取りこぼすことになる。
やっぱり書いているときの「たのしー」なのかなんなのかは知らないが、うーん、鳥がいますよね、風のつよい日です、鳩がなんか風の揚力?かなんかを生かして、ふだんはぱたぱた羽ばたいてるくせに、今日に限っては風に乗って、羽ばたかずに数秒間、風にのって微妙に体をずらしながら、ホバリングみたいなことをしてるとします。
このときの鳩の心境が、書いてるときの「たのしー」に近いような気がします。あの鳩とかがたまに羽ばたかずに飛んでるときは、別にパワーを節約してるわけでもなければ、かといって遊んでるわけでもない。
かといって、うっわ、おもろこれとかいう感じでもなさそう。鳩は素ぅの表情である。
じゃあ、あれはなんなのだろうかというと、ああいうのがなんか楽しみの原型というか、雛形というか、元々のなんか、あそびとかたのしみのもともとのやつなんじゃないか?ということは時々思う。で、書く、という行為は、人間の、風が強い日の鳩のホバリングみたいな感じのやつに近いときがある。気がする。

書いているときに明確に「うわ、めっちゃ楽しい!」とかなってるわけではなくて、ただひたすら打ってるという瞬間がずっと続いているのは素の表情の「たのしー」である。

で、たしか荒川さんはこういうネットでの書き物に対しては結構否定的だった気がする。「日記をつける」という本において

(後日引用)6/14のつづきに書く予定

しかし、しかしである。知るか、とは言わないけれども、やっぱり鳩が飛んでて「たのしー」ってなってるらしきものを、他人が茶々を入れられるだろうか。そんなのほっとくしかないでしょ、と思うのである。
ポリティカルかつコンプライアンスにおいてどうとか、意味や文意や文脈がどうとか以前に、やっぱりなんか、鳩としてみるべきであって、まず鳩を見て、鳩はわかった、じゃあこのポリティカルコレクトネスフルナッシングネスな文章はなんだとか、散々言えばいいわけであって、鳩も見ないで意味ばっかり見る人は困るという気がする。
同じ鳩なら飛ばなきゃソンソン、というわけでもないけれども、まあ言葉すくなに書いたほうが明らかに人の時間を奪わず、伝わり、響くよすがをもつのも確かだが、みっちり詰まっているからといって、本人が気分よく飛んでないとも限らないのだ。必ずしも本人だけが気分よく飛ぶものではないのが言葉の世界であったとしても、そのあいだやひびきあいを気にし過ぎて臆病になるぐらいだったら書きまくってしまったほうがまだ「たのしー」は味わえるような気もするのだ。そこに何が、どういうイメージや意見がつこうとかまわないということは前提として。誰に見向きされなくなってもずっと鳩やり続ける。個人的にはそっちのほうがずっと大事なのだ、いや、なんかふわっと書いたけど、大事とかじゃないな、なんでしょうね、大事とかじゃない。やっぱり鳩ですよね。トンビとかはもう基本があの風に乗って旋回するのが前提の人じゃないですか。鳩は基本的にぱためく人じゃないですか、その鳩が、風でちょっと「あ、これいけるかもしれん」と思ってはばたきをやめたときってやっぱり、鳩の脳内を言語化したとしたらやっぱり「たのしー」だと思うんですよね。で、言葉を書くときのガーってなってるときの感じもやっぱり「たのしー」。わたしは一応どれだけ書いても読み返して、気持ちわるいところとか、気持ちわるくしたいところは崩すようにしたりはするが、基本的にはドラえもんの「ぶんかいドライバー」でののび太の発言「これはこれでおもしろいじゃない」だったかな、あれを信じます。
わたしの基底を成すのは文学作品じゃなくて鳩でありのび太であり、リットン調査団なのです。

でも鳩は厄介者でもあり、なんかベランダに巣を作ったり糞をしまくったりするので、わたしは知らないが、ミルクボーイによれば、検索欄に"鳩"と打つと"鳩 撃退"と出るらしいから、そのへんとの兼ね合いというか調整も必要なのは確かである。

しごと!


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