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【創作大賞応援文】預言者は知っていた / はれるやさん

短い短い、とても短い応援文。
先日、ももまろさんに勇気をいただき、再始動です!

さて、今回は少し長くなります。
というのも、なかなか記事にするのが難しい、宗教についての話をさせていただくからです。ですので、私のスタンスもある程度しっかりと説明いた上で、話をさせていただきたいと思います。

今回応援させていただくのは『はれるや』さん。『はれるや』さんはクリスチャンで、今回小説初チャレンジとのこと。
作品は『旧約聖書』をベースにしたファンタジーです。

毎度ながら、作品の内容に関しては私は深入りしたしません。
作者と作品に対しての応援であり、皆様に読んでいただくための応援です。
あらかじめご了承くださいm(__)m


まず最初に。私の『宗教』という言葉に対しての、考え方というかスタンスについてお話したいと思います。

私はたぶん宗教に関しては、大多数の日本人と同じ考えを持っていると思います。
『自然の中に八百万の神が存在する世界の中で、神道と仏教が生活習慣の中に溶け込み、異文化の宗教も尊重しながら、できるだけ宗教的なことには触れない。そしてカルト集団は怖いもの」そんな感覚で生きていると思います。

お正月は初詣に行き、厄年になれば厄払いに行き、節分には豆を食べ、セントバレンタインはドキドキして過ごし、花まつり(ブッダの誕生日)は存在しか知らず、お盆にはお墓参りに行き、盆踊りのお祭りに行き、ハロウィーンはテレビで渋谷の風景を見て、クリスマスはケーキとケンタッキーを食べ、年越しは除夜の鐘をききながら年越しそばを食べる。
誰かが亡くなれば、お数珠を持って礼服と黒いネクタイでお葬式に行きます。

私にとっては、キリスト教(カトリック、プロテスタント、正教会)も、イスラム教もユダヤ教も、それぞれが唯一神とする存在も、預言者(イエス、ムハンマド)、ブッダも千手観音も弥勒菩薩も、イザナキ・イザナミもスサノオも天神様も、トイレの神様も、皆それぞれが神様だという感覚です。そして、宗教的なこととは関係なく、『髪がなくて、白く長い髭を持ち、白い服を着て、杖を持つ神様』と呼ばれる存在もいます。
たぶんこれは、自然に敬意を払うアミニズムをルーツとする神道の感覚と、漫画やアニメ、ゲームから得たイマジネーションによるものだと思います。

日本人の中であえて大きく分けるなら、「神なんているわけがなく、自分は無宗教」という方と、「比較的緩やかに受け入れている私のようなタイプ」と二分されているように思います。前者に関しては、カルト宗教・新興宗教に対するリスクから、小さなころ、あるいは思春期の頃にどこからか入手した考えではないかと思います。あるいは、若さゆえの大人に対する否定や『ならわし』への否定が混ざっているような気もします。

私は、宗教は人間を構成する大きなものであると認識しています。それは生活習慣の土台であり、思考の土台であり、人間であるからには否定することのできない存在であると思います。
何故なら、すべての人類のルーツに宗教は存在しているからです。
それぞれの国や文化の過去を受け継ぎ生きる私たちは、宗教を『受け入れる』か『否定する』か、その濃淡の度合にの差があるだけなのだと思います。

私事になりますが、私は17歳の頃、大きな失恋をしたとき、その答えはこれまでの先人の知識から答えを見つけ出せるだろうと思い、学校にある本棚に並んでいる哲学書を端から順番に、大量に読みました。その時、宗教とは人人が思考する上で切り離すことのできない存在であると感じました。

大人になり働くようになってからは、ビジネス書を読み漁るようになり、ニュースを見て世界情勢を考えるようになりました。その時に宗教に対する知識が必要であると思いました。
私は世界の3大宗教について学びました。
キリスト教、イスラム教、仏教、そしてそれを軸にした人類の争いの歴史。
それに伴い、プロテスタントとカトリック、大乗仏教と小乗仏教、仏教の流派、ヒンドゥー教とインド哲学を勉強しました。
ユダヤ教に関しては、キリスト教、イスラム教との関係性と現代の戦争の関係なども調べたと思います。

私の実家は、真言宗(空海)の熱心な檀家で、子供の頃は夏休みには『四万六千日しまんろくせんにち』というイベントの手伝いに行きました。大人になってからは、仕事の関係でプロテスタント牧師の認定も受けました。
でも、私自身はどちらにも献金はしていませんし、教会には通わず、お盆以外はほとんどお墓参りも行かない不届きものです。
比較的思想に偏りがあるとしたら、ユダヤの格言は便利だと思いましたし、中村天風さんの本を読んで、インド哲学のスタンスは便利かなと思いました。インド哲学は、突きつきつめれば『スピリチャル』の雰囲気に近くなる気がします。でも、私自身はもちろん『スピリチャル』を否定をすることはありませんが、少し距離を置いているように思います。
何故なら『スピリチャル』は独特な世界観で、いろんなものを内包しています(風水とか、太陰暦とか、マヤ歴とか、占星術とか、アボリジニーやハワイの先住民の様式や、多次元世界、幽体離脱や死後の世界、地球外知的生命など、)。それはいろんな要素を持ち、人によってその濃淡が違い、何となく誤解を生みそうな気がするからです。

と、以上が私の宗教的なスタンスです。

さて本題に戻りましょう。
『はれるや』さんの『預言者は知っていた』。
私は読む前に「クリスチャンの方の聖書に関するお話ですね」という質問をはれるやさんにしました。
はれるやさんはそれに対して「(旧約)聖書を題材にしたファンタジー」と返答されました。
そこに、少し違和感を感じました。
私は自らで「クリスチャン」とはっきりという方は、教えをしっかりと学び、神の存在に重きを置き、信仰に対して茶化すことなどありえない、真摯な姿勢であると思っていました。
しかし、。実際に作品を読んでみると、その物語の中では、主人公の預言者は、主に対し軽口をたたき、冗談を言い、時には反抗していました。
『このような物語を、フィクションとはいえ、クリスチャンが書いていいのか?』
そんな疑問が生まれました。
そんな時「聖☆おにいさん」という漫画・アニメ作品が、海外でも人気があり受け入れられているというYouTube動画を見つけました。
この漫画は、ブッダとキリストが、ボロアパートの同じ部屋に同居し、宗教的な名言や教えなどをパロディ化した作品です。
初めてこれを見たとき、笑いながら読んでいましたが。「もしこの作品が有名になって海外の日本の感覚がないクリスチャンの方が見たら、大バッシングを受け、下手すれば作者の命まで危ういのでは?」という考えが頭をよぎりました。
しかし、YouTube動画では肯定的な意見が多く、クリスチャンの方もゆるりと笑いとして受け取っているようでした。(日本のアニメを見るアニメファンには、親日家が多いだけかもしれませんが)

私は自分の作品を書くとき、宗教や思想についてどんなことを書いていいか悩むことがあります。
私のスタンスや思想とは違っても、キャラクターや物語の流れとして、極端な立ち位置の人物や集団を描くときがあります。
その時、私自身にそんなつもりはなくても、やはりどこかでいずれかの宗教に抵触してしまいます。
そして、その際2つ懸念することがあります。

1,その宗教の方が嫌な思いをする、あるいは作品や私がバッシングを受ける。
2,私が何らかの宗教者や思想に傾倒していると思われ、違和感や嫌悪感が生まれ、作品を読むことをやめる。

今回私が創作大賞に提出した作品も、人の歴史と未来を描く中で、架空の宗教について触れるシーンがあります。
とても慎重に、びくびくしながら書きました。
作品を書く時そこに対し、どんなスタンスで書いたらいいのか、今でも悩んでいます。

はれるやさんの作品を読んでみればその答えが分かるのではと思いました。
でも、読んだからと言って、革新的な答えが分かるわけではありませんでした。
何故なら私は旧約聖書の知識がほとんどないからです。モーゼが海を割ったと言う話と、ノアの箱舟ぐらいが、何となく思い浮かぶ感じです。
それでも、宗教を書くことに対してのアプローチを改めて感じることができました。

もう少し書きます。
物語を読む時のベースの知識に関して。
私は映画は基本的に太平洋戦争後の日本をベースにした邦画しか見ません。
何故なら、背景が分からないからです。
例えば『1969年:東京』と言われれば全共闘の時代であり、日本は高度成長期である。ということが分かります。ちょっと調べればもっと細かい背景もわかりますし、習慣や日本人の心の動きはある程度予測できます。
2023年と言えば、コロナ後期であり、大阪なら阪神の優勝の年の興奮。東京の歌舞伎町と言われれば、ホスト・ホステスの夜のイメージ。トーヨコキッズの問題。などを身近に感じることができます。
でも、1980年ベネチアと言われても正直感覚が分かりません。
そういった意味で、旧約聖書に対するいろんな関連があったのでしょうが、私には正直なかなか理解が難しかったです。
でもだからこそ、旧約聖書に関しても知識を入れたほうがいいなという思いが芽生えました。

もう少し書きますね。
はれるやさんは『クリスチャン』です。
インサイドであること。
当事者であること。
これは何かを書くときや表現するときにとても重要なことです。
一番わかりやすいのが障がい者についてかもしれません。
障がい者お笑い芸人の『あどそっく』さんという方がいらっしゃいます。
生後間もなく発症した病気により、顔と左手親指を除いた部分が動かない寝たきり状態のお笑い芸人です。
彼は、障がい者ネタをお笑いにします。
これは私たちには絶対にできないことであり、タブーです。
内側の存在であるからこそできることが存在します。
逆を言えば、私たちはその人の立場に対して色眼鏡を持ちながら作品を見ている部分は存在していると思います。

さて、もう一度話を戻します。
はれるやさんが、クリスチャンだから宗教をフィクションにできるのか?
たぶんそういう部分があります。
でも、同時に読者層は限られます。
それは否めないことだと思います。

でも、もし可能であれば。自分の作品と宗教へのアプローチという意味でこの小説を読んでいただくことには、大きな意義があると思います。
そして、はれるやさんには、少しでいいので、多くの読者が旧約聖書について知らないという前提をどこかで考えていただければ、読者は増えると思います。
もしかしたらそれは、はれるやさんの想いや、意図とはずれることかもしれません。

それでも、私は『はれるや』さんがたくさんの人に読んでもらいたいと言うメッセージを受け取りました。
私は『はれるや』さんと『預言者は知っていた』という作品、そしてそのチャレンジを応援します。
皆様、是非一話だけでも読んで、読みに来たよというスキをつけてください。
それだけでも、作品を世に送り出した者として、存在を認知してもたったという喜びがあります(私だけだったらごめんなさいm(__)m)。


最後に一つだけ。
日本人の一般的感覚に立ち返った時、宗教や思想には寛大でありますが、新興宗教のことを大々的に否定することは許されているように思います。
もしかしたら一部にそういった団体もあるかもしれません。
外から見たら、信仰を盾にお金を巻き上げる悪徳な存在として見え、同時に否定することに市民権を与えられているように思います。
一歩引いて、『アイドル産業』や『推し活』については構造は似ていますが、全く否定されません。また同時に新興宗教とねずみ講が同一視されている方もいるように感じます。
リスク軽減のために、自衛は大切です。
しかし、昨今の『匿名で平気で人を傷つける発言をする』ことに関しては、非常に懸念を感じ嫌悪感をいだいています。
お互いを尊重し、他者を傷つけることないような優しい世界になればと思っています。
(この最後の一文は、はれるやさんの作品と被る部分がありますね)。

最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m








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