![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/125489107/rectangle_large_type_2_369e553c71705c0213023b4954b4b47c.png?width=1200)
2023→2024へ
2023年も残すところあと1週間程度。
今年はとにかく濃かったし、月日の流れが非常に早かった、そんな印象を持つ一年。
そして、近年の中でも格段に充実感に満たされた一年でした。
修士論文を書きつつ研究に没頭し、教員採用試験の対策を並行して進めてきた日々は酸いも甘いもたくさんの日々でした。
そんな日々を過ごしていくなかで、ものの見方も大きく変わったように思います。
よく、他者から褒められたりすると、「いやいや、、」とか「自分なんて、、」と謙遜する人が多いと思います。私の周囲にもそういう人は多くいますし、私自身もそうでした。
研究を進めて進捗を生むたびに、ありがたいことに指導教員などからポジティブなフィードバックをいただけますが、その時に謙遜をすることに最近違和感を抱き始めたのです。
その時、私はこう考えました。
「謙遜と自己卑下は紙一重だけど全く違うものである」
至極当然とも思えることですが、最近まで気づくことがありませんでした。
褒めてもらったときなどに、自分を控えめに見せることは謙遜も自己卑下も大差ないと思いますが、両者は自分ができていることを素直に認められているか否かという違いがあります。
謙遜は、自分ができているところを認めたうえで、さらに改善できることなども同時に把握できていると言えます。
一方で、自己卑下は自分ができていることを認めないし、自分はできていないと自己暗示をかけているとも言えます。
その結果、自分はできないのだから、進捗を生めても違うと否定されるのではないか、そういわれたらやっぱり自分はできないんだ、という負のループに陥ることになります。
去年の私はこのループに嵌っていました。
しかし、この一年で、このループから抜け出すことができたと思っています。
修論もなんとか提出まで漕ぎ着けそうだし、教員採用試験も合格できた。
進捗を生むなかで、他人は他人である、ひたすら自分の研究に専念することを心掛け、自分もまだまだ捨てたもんではない、と思うことでチャレンジングな事も乗り切ることができた。
そして、指導教員や領域の他の先生と研究について話したり、疑問を持って行ってはあーだこーだとやり合う、そのプロセスの中で自分に自信を持てるようになってきた。
自分にできることを認めつつ、それでももっと高みを目指したい。
そんな気持ちが自己卑下のループから自分を救ってくれた。
あくまで自分の主観的な感覚だし、自分の周囲の環境が恵まれたからに過ぎない。そう思う節もあります。
環境によるところはたしかに大きいけれど、その中で自分ができることをやっていく、環境と私が相互作用をすることで、両者が適応的になっていく。
去年の私なら、不適応な環境にも順応しようとしていたでしょう。
環境ではなく、私が変わればいい、と。
その先に待つのは、変われなかった私に対する自己嫌悪だけでした。
でも、今は違う。私もそうだけど、環境も一緒に変えていく。
置かれた場所で咲くのではなく、置かれた場所で咲けるように土を整える。
そのためには、その環境で動けるように自分を整える必要もある。
だからと言って、自分の努力だけでどうにかできるわけでもないです。誰かを頼りながら、咲ける環境を整える。
社会人になる前に、このメンタリティを得ることができたことは、貴重な学びだったと思います。
2023年は自分にとって、大きく変わることができた、そんな一年だったと思います。
来年からは、某自治体で社会科の教員になります。
社会科の授業実践や生徒との関わり方を通して自己研鑽しつつ、修論を学会で発表したり論文として投稿したり、そして発展的研究を継続したりできるように、精進します。
2024年も学びに溢れる一年であってほしいと願いつつ、今年の総括としようと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
Maki
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?