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修論を振り返って

別で書いてるブログに載せた記事を転用します。今日はたくさん書いて疲れたので。以下全て自己引用。

この記事では、僕が修士の間に考え続けたテーマについて振り返って考えたことを記録したいと思う。

半年前のことになるので、曖昧だったり今の問題意識に引っ張られたりしているが、出来るだけ詳細に書いていきたい。

僕の研究テーマを一言で言うなら「お前に俺の気持ちはわかってたまるか」である。お節介やありがた迷惑を受ける人々に光を当て、彼らの生活に対する想像力を高めたいという思いが研究のスタートラインだ。

想定しているのは、これまで出会ってきた障害のある人々。それぞれに個別のストーリーがあるのは承知の上で、彼らはおよそ支援の対象であり、様々な人の手を直接借りながら生きている。その支援に不満があっても「助けてもらっている」という意識、あるいはそうした支援の社会的構造から、その不満を伝えられないという現状があると考えている。

特に僕の心に響いたのは、悪意のない言葉、行動にモヤモヤしている人間が多くいることだった。その具体例については、このブログに数多く挙げたので割愛するが、典型的な言い回しは「可哀想に」「私も◯◯(本人、あるいは近しい人間が似た境遇にあること)だから気持ちが分かる」「大変ね」「(全く意味のない)ごめんなさい」などである。

不意に健常者が障害者に出会ったときの振る舞いや言動は、面白いほど似通っていて典型的なパターンが決まっている。

言い方、状況によって言葉の意味は変わってくるが、見知らぬ他者からの弱者に対するこうした言葉かけは当人を苛立たせ、落ち込ませることがある。しかしながら、表面的には善意の行動のため強い反論もできず、ただ無力で可哀想な障害者(弱者)という像だけが再生産される。

「私たち(健常者)とは違う、特殊で可哀想な障害者」ではなく「みんなと同じように喜び悲しみ、時にはしたたかにしなやかに生きる障害者」の像を描きたいと思った。

これが僕の問題意識のスタートである。

卒論では、直接障害者へのインタビューを通して、彼らの生活のリアルを描こうとした。反省点は数え切れないが、質的研究の難しさと面白さを実感し、協力者にも少しは何かを返せたと思うので満足している。

しかし、このストーリーを多くの健常者に伝えるチカラが僕には足りなかった。どれだけ繊細に彼らの生活を伝えても、どこか「向こう側の世界」のように受け取られてしまう。

実際、普通の健康な人間が送る生活とは大きな乖離があるので、直接出会って共に時間を過ごさない限り、実感を伴って理解するのは難しいと思う。

やはり、障害者の生活への想像力を働かせるのには限界があるかもしれない。これが卒論を発表した後に残った課題だった。

修士ではこの課題をどうにか乗り越えたかった。直接障害者の生活を描いても、別世界として受け取られる。そこで思考の順序を反転させてみた。障害者の経験と似たものを健常者も体験しているはずである。

健常者も困ったとき、苦しいときの善意の言動に戸惑い、不満を感じているはずだ。その経験を思い出すことにより、完全に異なる他者である障害者への想像力のスイッチとなるのではないか。直接経験しなくても、他者に思いをはせる力を人間は持っている。同じように喜んだり困ったりしていると気づくきっかけさえあれば、どれだけ違って見える人とも共に生きられると思った。

さて、そろそろ本題に入ろう。僕の修士論文の題目は「類似経験と視点取得のメッセージに対する受け手の評価」である。

僕の問題意識は、障害者に対するありがた迷惑な言動であった。それと似た体験を一般の人々が体験したときにどのように感じるか明らかにすることにより、障害者の体験を実感を伴って理解するきっかけになることを目指したのだった。

心理学を専攻しているので、方法は大きく分けて2つ、質問紙か実験である。実際に体験してもらわないと意味がないので実験法を採用した。

善意の言動としては、様々なものがあるが典型的なものとしては、
「大変だね」「可哀想だね」といった同情を示すもの
「お手伝いしましょうか」「困ったことはありますか」といった援助を申し出るもの
「気持ち分かるよ」といった共感を示すもの
「私も同じだ(似ている)よ」という共通点を示すもの
などが挙げられる。

多くの障害者は、どの言葉も受けたことがあると思う。もちろんこの全てが悪くて、言うべきでないというわけではない。むしろ困っていそうなときに積極的に声をかけることはいいことだと思う。ただ、無闇な言葉かけによって、当人が不満やストレスを感じているかもしれないということを僕は示したかった。

今回の実験では「あなたの気持ちを考えています」という共感を示す言葉と、「私も似たような経験あります」という共通点を示す言葉の2つを採用した。

修論の題目にある視点取得とは、「あなたの気持ちを考えている」という他者の気持ちを想像することを指しており、類似経験が「似た経験をしている」ということを指している。

この視点取得と類似経験、それぞれのメッセージを受けたときに人はどのように感じるのかを実験で調べたのが修論である。

困ったり悩んだりしているときに、「あなたの気持ち分かるよ」というメッセージを受けたらどうだろうか。関係性や言い方にもよるが、素直に受け取れば心配されているのだなと思って少し気持ちが軽くなるのではないか。

ちなみに本稿では気持ちを「考えている」=「分かる」としている。厳密には違う概念だが、相手の気持ちを想像していることを考える、あるいは分かると表現している。

さて、同様に困った状況で「私も似たようなことがあったよ」と言われたらどうだろう。こちらも悪い気はしないのではないか。仲間がいるのだと思えるし、経験者からのアドバイスがもらえるかもしれない。

状況や関係性に大きく影響されるものの、視点取得(あなたの気持ちを考えている)と類似経験(あなたと似た経験がある)のメッセージに対してはポジティブな印象を受ける。

ここで、極端な例を挙げよう。あなたはテストで赤点をとってしまったとする。たまたま隣の席の人から声をかけられた。「いやあ気持ち分かるわ」

その人が同じく赤点をとっていたら、自然に受け取れると思う。お前も家に帰って怒られるんだな、一緒に補講受けるのだなと思うだろう。確かに私の気持ちを考えてくれているように感じる。

反対にその人がそこそこいい点だったらどうだろう。考えるまでもなくムカつくはずだ。いや分からんでしょと言ってしまうかもしれない。

つまり「気持ち分かる」と「似た経験ある」はそれぞれ単独ではポジティブな印象がある。しかし、類似経験はないものの、視点取得をした場合にはネガティヴな印象を与えるのである。

ここで障害者の生活に立ち戻ってみよう。こうした言葉かけをお店や公共の場所で受けたときのことを想像してみる。

まず、似たような境遇の人間は極めて少ない。従って類似経験は恐らくないに等しい。つまり、似た経験をしていない人間から「気持ちを考えてますよ」と言われる状況である。

テストの例を振り返れば分かるように、これはかなり「ムカつく」状況だろう。

実際は単にムカつくだけではなく、声をかけてもらって嬉しかったり、申し訳なかったり、様々な感情が芽生える可能性があることには注意が必要だが。

僕の実験では、この視点取得と類似経験の組み合わせによって与える印象が変わることを示した。

組み合わせを整理すると4パターンある。

1つ目は、類似経験と視点取得が両方あるパターン。テストの例で言えば、同じ赤点で私の気持ちを考えてくれるパターンである。

2つ目は、類似経験だけのパターン。赤点をとったことだけを伝えてくれる人である。

3つ目は、類似経験はないものの視点取得はあるパターン。テストはいい点で、私の気持ちを考えるパターンだ。

4つ目は、類似経験はなく、特に気持ちを考えてもくれない人である。テストはいい点で特に私の気持ちに対してはコメントがないパターンだ。

実験は、参加者に最近困ったこと、ストレスを感じた事を手紙に書いてもらい、架空の実験参加者からその手紙の返答(僕が用意した手紙)が返ってくるという流れで行った。
架空の実験参加者の手紙が上記の4パターンであった。

例えば、ある実験参加者はアルバイトで迷惑な客がいたことを手紙に書いてくれた。僕はそこで1つ目のパターンの手紙を参加者に返したとしよう。

パターン1の手紙には架空の参加者も似たような経験があり、実験参加者の気持ちを考えながら手紙を読んだことが書かれている。

つまり、実験参加者には「別室にいる参加者もアルバイトで似たような経験をしており、私の気持ちを考えてくれた」と思わせるのである。

その上で架空の参加者に対する評価を行ってもらった。当たり前であるがパターン1の手紙はもっとも高評価であった。次に評価が高かったのはパターン2(似た経験をしたと伝えるだけ)であった。似たような経験をしていると知ると高評価につながり、その上で私の気持ちも考えてくれる他者は更に良い印象になるというわけだ。

この実験のポイントはパターン3とパターン4の違いである。

パターン3は類似経験はなく、視点取得だけある。つまり、似た経験はないけど、気持ちは考えるいう人間である。パターン4は似た経験もなく、気持ちも考えない人間である。

実験結果はパターン3が最も低い評価であった。従って似た経験がない者が「気持ち分かるわ」と言うとネガティヴな印象を与えることが示された。

パターン1と2の違いを振り返ると、似た経験をしている場合の「気持ち分かるわ」はさらに評価を高める効果があった。
しかし、似た経験をしていないパターン3と4を比較すると、「気持ち分かる」と言った方がネガティヴな印象を与えていたのである。

もう一度、障害者の世界に戻ろう。
障害者が道行く人からかけられるのはパターン3(類似経験なし、視点取得あり)が最も多い。今回扱ったのは「あなたの気持ちを考えています」という言葉であったが、他の「可哀想だね」や「大変だね」といった言葉も同じだと思われる。

変に同情されたり共感を示されたりしても「お前に何が分かるねん」と言いたくなる。しかしそれは、社会のマナーや常識からは外れた言動のために気軽に言うことができない。しかし心の中にはネガティヴな感情が残ったままなのである。

今回の実験は、一般の大学生を対象に、扱う困難も、テストやアルバイトといったストレスであったものの、似た経験のない人間からの言葉がけがネガティヴに働く可能性を示した。

これは障害者の感覚とパラレルであると思うし、この感覚を広く共有することで、自分とは異なる他者の生活への想像力が少しでも豊かになると信じている。

以上が僕の修論の概要である。卒論からの流れで問題意識を整理して示すことができたと思う。修論でひたすら考え続けたおかげで、今何も見ずにノンストップでこの記事を書くことができた。

僕がこれまで考えてきたことは最もぐちゃぐちゃでまとまっていなくて、色んな問題意識が混在しているのだけど、1つの論文として一貫した論理でストーリーを作成した。

その混沌とした過程はこのブログに載せてきたし、この思考過程があったからこそ、この論理を組み立てることができた。

一旦この思考には区切りをつけ、これを踏み台にして次の問題意識を書き出して、また整理していきたいと思う。

お疲れ様、自分。

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