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宗教について、経験にもとづいて語る?

宗教について、経験にもとづいて語ることは、さほど難しいことではない。

宗教体験ということではなくて、「宗教というものは、こうこうこういうものだ」という個人的な意見を述べるのは、ある程度の人生経験を積んでいる人には、それほど難しくはないだろうと思う。

「自分の意見を述べることが苦手」という人のことは、とりあえず、おく。

宗教について経験にもとづいて語ることはさほど難しいことではないとしても、少し議論を展開させて話さなければならなくなると、徐々に心許なくなる。

どのようなテーマであれ、経験だけに頼って語るときには、そういう成り行きはほぼ避けられない。

そこで本など読んでみる。

最近は、ネットのまとめサイトなどを読んだりすることの方が一般的かもしれない。

つまり、他人の経験と考察の結果を取り入れるということで、この段階で宗教について語れば、それは「自分の経験にもとづいて」ではなく、ある程度、宗教学の領域に入っていることになる。

そうなると、一定の基礎的な認識が必要になってくる。

読んだ本やまとめサイトが不十分なものであれば、そうした基礎の上に立てられたものはぐらつく。基礎を固め直さない限り、ぐらつき続ける。

大学の宗教学講座などで指定される入門書は、そういったことに対応して、基礎的なことが十分に書かれていることが期待される。

しかし、残念なことに、基礎的なことが十分に書かれていることは少ない。

厳密にいうと、その基礎がなぜ重要なのかが書かれていることは稀だ。

なぜ書かれていないのか?

書く方にとって、それが重要であることはあきらかすぎるからだろう。

あるいは、もっと関心がある事柄にスペースと執筆時間を取りたいからだろう。

そのようにして書かれた大学の学部生向けの入門書は定番ができるとなかなか更新されない。微修正や新しい知見は書き加えられても、根本的な構造が変更されることはまずない。

最初から入門書を書き起こすのは大変なのだ。できればやりたくない。

そのうち、出版社が一般向けの入門書の企画を立てる。

多くは「わかりやすい言葉で、広く薄く」がモットーの本。

これは結構たくさん出てくる。

知識の確認はできても、その知識がなぜ必要なのかは、ほとんど書かれていない。

「解釈は省いておきましょう。ページもありませんから」

そういうアドバイスが編集者からあれば、すべてがそのような方針で進んでいく。依頼で書かれる入門書というものはだいたいそういうものだ。

詰め込み教育、暗記主義で批判されていたことのポイントをはずし続けた結果、結局、同じことが繰り返され、手際のよい整理がもてはやされる。

情報の羅列はネットの普及によって加速される。

情報との接し方で重要なのは、情報の選択の仕方だろうとは思うが、もう少し詳しくいうと、情報への意味づけがより重要だ。

「どれ」を選んだかよりも、「なぜ」選んだか。

入門書の話で言えば、情報がたくさん並べられていることよりも、その情報がなぜ書かれなければならなかったのかという説明の方が重要なのだ。

ある情報が選ばれた理由が書かれているだけでは不十分で、その理由についての説明が十分にされることが重要ということだ。

専門家はこの点に関して、読者に忖度することはあまりない。

日本人が書いた入門書は何冊読んでも同じようなものだが、たくさん読むと問題点が見えてくる。

突破するには英語の宗教学入門を何冊か読んで見ることを薦めたい。

翻訳書でもいいが、翻訳書は悲惨なものにあたると、救いようもないほど酷い。

英語の本一冊というのはなかなか大変なことだが、全部読まなくてもいい。序文、第1章の導入など、本格的な部分に入る直前までで、ここで話題にしたことの目的は十分達成できるだろう。

何冊か読んでいくと、情報について、なぜ重要なのかをひつこいくらいに説明したものに出会える。アプローチの仕方が違うのだ。

日本の学問はいつからか、どの分野も総じて「もう外国からは十分学んだ」という態度をとるようになった。

「これからは日本人が独自に進むことが重要」

理系の学問は海外の研究との連動が不可避に必要な場合がほとんどだから、さほど問題ないのだろうが、文系の学問のうち、西洋発祥の分野は西洋との距離を取り始めると、途端に貧弱になっていく。宗教学もそこに含まれる。

各分野の専門家の絶対数が圧倒的に少ないことがその理由のひとつだろう。

基礎的な部分がどんどんと省かれ、「専門性の高い」部分に時間が割かれる傾向が強まっていく。

基礎がどんどんぐらつくようになっていく。

専門の細分化はどの国でも言われていることだろう。しかし、日本に独特な問題というものもある。

日本の学問分野で広く認められている問題を敢えて一言で言えば、入門書の貧弱ということだ。

言葉を尽くして、初学者に説明するのを省略する傾向は強い。

口頭での説明不足を本で補えるのであれば、それでもいいのだが、十分に補っている入門書は少ないのが現状だろう。「広く薄く」の入門書や概説書は一冊あれば、十分なのだ。

英語で書かれた入門書の翻訳でもいいと先に書いたが、翻訳よりも日本語の方がいいのは当然だ。

日本人には日本人の思考過程というものがあって、大抵の場合、西洋人とは明確に異なっている。英語の本を訳してみれば、わかる。

「なぜここで、この一文が入るのか?」と思うことは多いのだ。

それが思考の流れを妨げる。その余計な一文に意味を見出そうとしてしまう。慣れてくれば、無視できるが、慣れないと、引っかかる。ここでは初学者が読むということを念頭にしているので、この点は重要。

こういうことを書くからには、宗教学の入門書でも書き始めそうなものだが、なかなかそうもいかない。

本として印刷することを考えたら、出してくれる出版社もないだろうし、そこまでの力量が自分にあるとは思わない。

ならば、批判は控えたらよかろうというのは妙な話だ。

(力量がある人に書く時間がないという構造的な問題をここでは言っているわけなのだが)

とはいえ、そういう話を少ししなくてはいけない機会ができたので、そういう話の最初の段階をこの場を利用して、やってみようと思うわけである。

(つづく)

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