ヴェルハウゼン『古代イスラエル史序説』(プロレゴメナ)序文(6/最終回)

(↓ はじめから読む)

〔当時は〕燃え盛る火事の現場に火消し役が近寄ることはなかった。

なぜなら、論争が決定的な問題となりうるのは、宗教上の古代世界と支配的な宗教概念という領域の中でしかなかったからである。

ファトケが著書『聖書神学』Biblische Theologieの中で全面的に支配し、本当の戦いの火蓋を切ったのは、そうした領域の中だけだったのである。

この方向への試みを進めるにあたって、私は五書を構成する三つの構成要素、祭司法典〔祭司文書〕、申命記、そして、ヤハウィストの作品の比較から始める。

もちろん、最初の二つ、祭司法典と申命記の内容は法に関するものであり、三つ目のヤハウィストの作品は物語である。

しかし、十戒(出エジプト記20章)、二枚の石板の律法(出エジプト記34章)、契約の書(出エジプト記21-23章)が示しているように、ヤハウィストの中に法的なものが全く抜け落ちているわけではないが、祭司法典と申命記に歴史に関する要素が欠けているわけでもない。

さらにいうと、それぞれの著者の歴史的な立ち位置は、逆に、それぞれの歴史についての説明の中に映し出されている。

それゆえ、直接的にも間接的にも、それぞれの間に比較の場としての接点がないということはないのである。

これら三つの構成要素〔祭司法典、申命記、ヤハウィストの作品〕には、互いに長い時間的な隔たりがあることは認めていい。

そこで生じてくる問題は、それぞれがどういう前後関係にあるかということである。

申命記はヤハウィストと祭司法典の両方に比較的近い関係にある。

ヤハウィストと祭司法典の間の隔たりは最も大きい。

エヴァルトは1831年の著作においてすでに、その隔たりゆえに、ヤハウィストと祭司法典が補完し合うものとして書かれたとは考えられないと宣言した。

それほど、その隔たりは大きい。

そして、この観察をヤハウィストは申命記に先行するという議論の余地のないことと結びつければ、祭司法典が三つのうちの最後に位置するという結論に至る。

しかし、こうした考察は、私の知る限り、受け入れられているデータに基づいていたものではあるのだが、このような一般的なことで規定されているだけでは価値がない。

この三つの構成要素のつながり方については、それを詳細に辿り、検証し、独立した基準と照らし合わせることによって確定させる必要があるのである。

その独立した基準とは、すなわち、独立した資料から得られる信頼できる証言からわかっているイスラエル史の内的な展開である。

これから始めようとしている文献学的で歴史学的な研究は、広範に及ぶものであり、複雑に絡み合ったものである。

それは三部構成になる。

第一部は、基礎部分に関することである。

聖なる考古学との関係にあるデータはともにまとめられ、五書における順序に従って並べられており、それはまさに展開のひとつひとつが歴史の中に明らかであるかのように示されている。

〔** ここでいう「聖なる考古学」とは、のちの「聖書考古学」ではない。当時の意味では、「聖書の歴史学的な研究」「聖書外資料を用いた聖書研究」に近い〕

不本意なことと言ってもいいと思うが、この議論は礼拝作法の歴史というようなものとして形作られてきたのである。

その歴史が粗く、無色であるのは資料の欠陥であると言わねばならない。

その資料は捕囚以前と捕囚以後を対比させる以上のことを許さない。

そして、そこからの副次的な手法においては、申命記主義と申命記主義以前の対比ができるだけである。

しかし、それと同時に、扱っている時代の広さがもたらす利点もある。

それぞれが明確に区別されるという点である。

歴史的な文章と法に関する文章は、捕囚後か捕囚以前かに分けることができるはずなのだ。

第二部は多くの点で第一部と関連している。

そこでは、歴史的な伝承の形成に連続して支配的な影響を及ぼしてきた思想と傾向を辿り、それが構想され、定められていく様々な過程を見ていく。

つまり、伝承の歴史がそこでは扱われることになる。

第三部では第一部と第二部で得られた批判的な研究成果にさらなる考察を加えつつ要約し、一般的な展望で締めくくることにする。

ここで立てた仮説は研究の過程においてくり返し正当なものであることがわかるだろう。

大原則は二つある。

ひとつは、ヤハウィストの文章はその核心部に限って言えば、アッシリア時代に属すということである。

もうひとつの原則は、申命記はそのアッシリア時代の終わりに属すということである。

さらに言えば、列王記下22章に従った申命記の年代について、私がどんなに強く確信をもっていようと、グラフGrafのように、この見解を梃子にして、自分の主張を展開しようとしているのではない。

〔列王記下22章では、神殿の修復工事で、「律法の書」が見つかったことが語られている〕

申命記は起点ではある。

しかし、それはそれなしには何事もなし得ないという意味での起点ということではない。

申命記が歴史的に基礎づけられていることで、祭司文書の位置も歴史的に固定されなければならないという意味において、申命記は起点なのである。

私の研究はグラーフの研究よりも広い基礎を見据えており、それゆえ、ファトケのものに近い。

私はまさに感謝をもって、最も多く、最善のものをファトケから学んだと思っている。

(「序文」おわり)

* * *

[これをもって、ヴェルハウゼン『古代イスラエル史序説』(プロレゴメナ)の「序文」は終わります。この後には「礼拝の歴史」「伝承の歴史」「イスラエルとユダヤ教」という三部構成で本論が続きます。ドイツ語原典は序文を含めて400頁を超える大著です。全文邦訳の企画が進んでいるという話をかなり前に聞きました。しかし、本論部分はこの著作の後に展開された150年近い聖書学研究の過去の一過程を辿るだけのものと言わざるを得ないでしょう。その中でヴェルハウゼンはその後の研究者と同列にあり、その先陣を切ったということ以外に特筆すべき成果は残していません。それゆえ、本論の訳出は日本人の専門家、好事家の時間を節約するだけのもので、その全体を活字にして印刷、出版することの意義は低いだろうと思います。

ヴェルハウゼンが特別な存在であるのはこの「序文」によって、その後の研究の方向を明言したことでしょう。今日の聖書研究では当然とされていることをヴェルハウゼンが19世紀末、1878年に公言したことがセンセーションを巻き起こし、それが今でもくり返し、あまたの聖書学の研究書の序文に語られているということが重要なのだろうと思います。その理由がこの「序文」に書かれていることを知らずに、昨今の聖書研究の序文は十分に理解できないということです。]

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