ヴェルハウゼン『古代イスラエル史序説』(プロレゴメナ)序文(5)

(↓ はじめから読む)

一方、祭司法典は、のちの時代とカナンでの定住生活への言及をしないようにしている。

 カナンでの定住生活についてはヤハウィストの契約の書(出エジプト記21〜23章)と申命記の両方がその正当化の基本的な表現をしている〔祭司法典ではされていない〕。

祭司法典は注意深く、また、厳格に、荒野での状況という境界のうちに止まるようにしているのである。

荒野にあることこそが律法が与えられるという切実さに求められることだからである。

そして、それは実際のところ、可動式の聖所〔契約の箱〕、彷徨う陣営など古風な装置を伴わせることで、文書の実際の成立年代を隠すことに成功した。

捕囚以前のヘブライ人の古い時代について知られていることと一貫していないのは、それが古い時代のものであることを証明しているだけのことで、その非常な古さからすれば、今日知られていることとの関係を示すことはできないと捉えられてきた〔「理解できないのは、それが古い時代のものであることの証明」という考え方〕。

つまり、今日、問題となっているのは祭司法典なのである。

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モーセ五書の成立についてのはっきりとした理解を求めて、元々はデ・ヴェッテに提示され、その後にジョージとファトケによって明確に認識された歴史に関する問題を当座は傍に置いた批判が堅実なものとされた。

しかし、主に創世記に注意が向けられつつ進んだ文書資料の分割によって、この大いなる歴史に関する問題は偶然にも答えを得たと考えられたのが間違いであった。

実際には、問題は眠らされていただけで、それをグラフが再び呼び覚ましたのである。

グラフは、資料を分割したところで成功が得られるのかどうかわからないという不利な状況の下で研究を進めた。

それによって、絶望的で、全く当てにならない前提に立たされることになる。

しかし、その仮説はグラフ自身の仮説と関連するとは限らず、フプフェルトの文書批判の段階が到来すると、無効となった。

そもそもグラフは、古い考え方、特にトゥッフ Tuch による古い考えをしていた。

つまり、祭司法典は創世記の中で際立った骨格をもつ「基本文書」であり、それをヤハウィスト文書が補完しているのだから、当然ヤハウィスト文書の方が年代的に新しいとする考えである。

しかし、その一方で、グラフは中間の書〔出エジプト記から民数記〕における祭儀的な部分をヤハウィストよりもかなり新しい時代に属すものとみなしているので、

それをできる限りはっきりと創世記の導入部分から切り離したことで、祭司法典をそれぞれが500年もの時を隔てた二つの部分に分けざるを得なくなってしまった。

しかし、フプフェルトはそのはるか以前に、ヤハウィストがしたのは単なる補完ではなく、全く独立した作品の著者であることを明らかにしていた。

そして、ヤハウィストによる「基本文書」への補完の例と示すものとしてよく挙げられる創世記20−22章のような箇所は、全く別の資料から作られたものであることを示した。

その別の資料というのがエロヒスト資料〔エロヒスト断片〕である。

このように、グラフがつまづいた石は取り除かれ、その道は予期せぬ同盟者によって整えられた。

ケネン A. Kuenen の意見に従って、グラフは差し延べられた救いの手を摑むことを躊躇わず、祭司法典を乱暴に分断することをやめる。

それによって、グラフは創世記の物語部分から得られる結論と似たような結論が律法に関する主たる部分からも得られるという結論に困難を感じることはなくなった。

* * * *

今や、基礎は固まった。

仮説の発展の大部分を担ったのはケネンである。

それまでの支配的な意見を擁護しようとする者たちはまだその基盤を維持していた。

しかし、長く支配的であったため、底に溜まった澱の中にいるような状態でもあった。

〔新しい考え方からの〕攻撃に対する反撃は、すでに基盤が損なわれているという不利な状況からなされたものにならざるを得なかったのである。

アモスやホセアが祭司法典を知っていたことを示そうとする引用をしても、すでに祭司法典が新しい時代に属すと説得されている者にはなんの印象も与えることはなかった。

そこではやはり、祭司法典が申命記よりも新しいということなどあり得ない、申命記記者は祭司法典を実際に手にしていたのだと、ほとんど暴力的とも言えるほどに主張された。

しかし、それに関する証拠は極端に問題を生じさせるものであった。

他方で、申命記が全体としてヤハウィストに依存していることは非常に明らかであった。

六書全体の最終段階の編集校訂が強調され、それが申命記記者による編集とされた。

しかし、それは申命記記者による編集の痕跡は、祭司法典に属す箇所のどこにも辿れないという結果を生じさせた。

さらには、ヘブライ語という言語の歴史さえも、グラフへの反論のために用いなければならなかった。

ヘブライ語を柔らかい蝋であるかのように扱うには慣習が多すぎるというのである〔意訳:大胆な仮説で変形させることなどできないほど伝統によって固まっていた〕

一言で言うと、議論にもち出されていたのは原則としてすべて、祭儀的な規則は古いに違いないのであり、ユダヤ教の時代になってから初めて記されたなどということはありえようはずもないという道徳的な確信から生じる力であった。

祭儀的な規則が祭司法典以前には効力をもたず、捕囚以前に支配的であった状況の中では、その規則が効果をもっていたとは認められないということがそうした道徳的な確信を揺るがすことはなかった。

その確信は議論によるものではなかったので、より堅固であったが、祭儀的な規則は捕囚以前には存在していたということなのであった。

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(次回で、この「序文」は終わります)


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