渇きを潤す活きた水
2024年6月16日(日)十日町教会 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書4章1~26節
牧会祈祷:
慈しみに満ちている神さま。私たちは日々あなたから多くの恵みをいただいて生かされています。しかし私たちはそれらをあなたからの恵みであることを忘れ、自分の力で手に入れたものであるかのように振る舞ってしまいます。私たちはあなたからたくさんの出会いを与えられています。しかしそれも自分で得たものであるかのように思ってしまいます。そのためにあなたから与えられているものを大切にせず、不平を言い、粗末にしてしまいます。
いま地球の過熱化が加速しています。それにより世界の特に貧しい地域で深刻な被害が出て人々が故郷や住む場所を失っています。私たちは今一度あなたの造られた世界を大切にして生きられるよう悔い改めの心をお与えください。
教会に連なる友のために祈ります。病い、体調不良、介護など様々な事情でここに集ない人たちをどうか神さまが祝福してください。本日は午後から就任式が行われます。新潟地区を中心にたくさんの方々が十日町まで来てくださることに感謝いたします。それぞれの教会で今日ささげられる礼拝がいのちと恵みにあふれるものでありますように。
十日町幼児園、山本愛泉保育園のために祈ります。今週それぞれの園で評議員会、理事会が開催されます。園の働きがあなたのみ旨にかなったものであり続けられますようお助けください。園に通う子どもたち、その保護者、そして職員一人一人が神さまに守られて生かされていることを実感し、そのことに感謝を持ってそれぞれの仕方で応えていけるよう導いてください。イエス・キリストによって祈ります。アーメン
説教:
おはようございます。今日は午後から牧師就任式があり、普段は他の教会の礼拝に出席されている方々もいらっしゃいます。ようこそお出でくださいました。歓迎いたします。神さまによって今日十日町教会に招かれ、この礼拝を共に捧げる私たちに向けて語られる神さまからの良い知らせにご一緒に耳を傾け、賛美と祈りを捧げましょう。
5人の夫がいた女性
イエスとある女性の出会いの物語を聞きました。皆さんは物語のどんなところが気になったでしょうか。まずイエスがサマリアの女性の過去、そして現在のことをよくご存知であるという点に驚かれた方もいるかも知れません。この女性は5人の夫がいたといいます。当時のイスラエルでは夫に先立たれるとその兄弟と結婚するというルールがありましたから、この人は夫に先立たれたのでその弟と再婚し、また夫が亡くなったのでその弟の再婚…ということを繰り返したのかも知れません。約2000年前ですから栄養状態も悪く衛生環境も良くありません。また医療も発達しておらず若くして亡くなる人がたくさんいた時代であり、だからこそ血族を絶やさないために多産・多子の時代でした。日本では最近のニュースで去年の合計特殊出生率が1.20、東京は1を下回ったと報道されていましたから、私たちの生きている状況とはかなり異なる状況です。
この女性にはかつて5人の夫がおりましたが皆と別れ、いまは夫ではない男性と連れ添っています。その理由は書かれていませんのでなぜかは分かりませんが、もうこれ以上夫の死別を経験するのは辛いという思いからなのかも知れません。でも周囲の人はそういう気持ちや事情を汲んではくれません。「あの人は5人も夫を持ったのに飽き足らずまた違う男性と連れ添っている。しかも今度は結婚をしていないらしい。なんてはしたない。」そんな心ない言葉が直接は言われないにしても耳に入ってくる、そんな状況だったのでしょう。彼女は同じ地域に住む女性たちと交流を持つのが負担に感じていました。だから彼女は正午になって井戸に水を汲みにやった来たのです。本日の6、7節を改めて読んでみますのでお聞きください。
「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは『水を飲ませてください』と言われた。」
井戸に水を汲みにくる時間
水を汲みに来たのが正午というのは普通ではありません。私たちは新聞やテレビなどでこのような問題を見聞きします。(ある6歳の少年)「ジョサファットが住む南スーダンでは、住居のそばで水を手に入れる術はありませんでした。そのため、数時間もかけて歩いて水を汲みに行かなければなりません。水くみは女性や子どもたちの仕事でした。ジョサファットは、毎朝3時に起きて水くみに出かけ、重い水を一生懸命運び、7時にようやく家につきます。そしてまた、午後も同じように水くみの旅へ出かけていました。「勉強をしてみたい」「学校へ通ってみたい」そう思っていても、ジョサファットは水くみの仕事だけに、一日の大半の時間を奪われてしまっていました。」(引用 https://gooddo.jp/magazine/add/unicef-water-10c-questions-12c/ 2024年6月13日アクセス)
水を汲みに行く時間帯は普通は早朝です。早朝であれば涼しい時間帯ですし、水は朝食の煮炊きなどに必要だからです。でもイエスが出会ったサマリアの女性は正午ごろ水を汲みにやってきました。朝汲みに来た方が良いに決まっているのにどうしてか。他の人に会いたくなかったからです。朝汲みに来ると大勢の人と会ってしまう。そして聞きたくもない、自分を傷つけるチクチク言葉をかけられてしまうかもしれない。そんな思いから彼女はたとえ1日の生活が不便になっても誰にも会わなくて済む正午ごろ井戸にやってきたのです。
イエスとの出会い
するとそこには1人の男性がいました。村の人間ではありません。服装から察するに旅人であってサマリアの人間でもありません。だから彼女は自分に話しかけてくることはないし問題ないと思っていました。しかし彼女の予想は裏切られるのです。「水を飲ませてくれないだろうか」「こいつ、話しかけてきた!」というのが正直な反応だと思います。当時は道端で男性が女性に話しかける文化ではありませんでした。さらにユダヤ人とサマリア人との間には300年にわたる長い確執があって交際がないという前提もありました。それにもかかわらずユダヤ人男性であるイエスはサマリア人の女性に声をかけたのです。よっぽど疲れていて喉が乾っからになっていたのでしょうか。
幼児園での話
今日の説教題を「渇きを潤す活きた水」としました。私はこの4月に十日町教会の牧師としてだけでなく十日町幼児園の園長としても就任しました。平日はもっぱら園の仕事をしていますが、十日町幼児園ではよく園外保育で近所の山を登った先にある公園に遊びに行きます。先週の木曜日、この礼拝堂で年中年長さんと礼拝をして一緒に山の中にある公園に遊びに行きました。結構な坂道でしたが公園に着くと鬼ごっことしようとこどもたちに言われ、じゃあやろうかと答えたら一人の子が「抱っこ」を要求します。「どうして」聞くと坂道が疲れたようです。「お椅子に座っていたら」と言ってもダメ。かと言って他の子は私が鬼で鬼ごっこがしたい。どうしようか考えました。結果、抱っこしながら鬼ごっこをすることにしました。その公園は少し登った高いところにあり平地より涼しいとはいえ当日は気温30度です。抱っこで腕と足は疲れるし、暑くて汗は流れるしであっという間に喉が乾っからになりました。そんな私にとって渇きを潤す活きた水とは水筒に入れた麦茶のことで、まさに身体中に染み渡る水でした。
イエスが話しかけた意図
イエスも木曜日の私と同じように喉が乾っからだったから井戸にやってきた女性に声をかけたのでしょうか。それもあったと思います。イエスだって私たちと同じ人間だからです。でもそれだけではなかったと思います。イエスはわざわざ正午に井戸にやってくる訳ありの女性に声をかけようと意図して声をかけたのです。イエスは女性と会話を続け水を巡る話を展開し、「生きた水」の話をします。女性は生きた水を生活水のことだと思い、それが欲しいと思いました。彼女は人に会う可能性のある井戸にできるだけ来たくないのです。でも生活するのに水が必要だから、この井戸とは別の場所で生活水が手に入るのならそんなありがたいことはないと思いました。だから15節「渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」とイエスにお願いします。さあ、どうなったでしょう。
イエスは彼女にもう一歩踏み込んでいき、夫の話に触れます。それは彼女がこの井戸にわざわざ正午に来なくてはいけない理由でした。イエスは自分の喉の渇きをきっかけに人生に渇きや虚しさを覚えているこの女性に渇きを潤す活きた水を提供するために彼女に話しかけ、関わりを持ちました。ユダヤ人とサマリア人は交際しないと言われている300年にわたる確執を超えて。
キリストの体である教会が倣うイエスの姿
イエスは誰にも会いたくないという事情を抱えた、心塞ぐ人のところにも来てくださり、完璧な神としてではなく人としての弱さを見せながら関わってくださいます。私たちは教会に来なければ絶対にイエスに会えないというわけではありません。病のため、高齢になり施設に入居したため、その他様々な事情で教会に集うことのできない人がいますが、イエスはその一人一人のところに来てくださり、水をくださいというように弱さを見せながら関わってくださいます。またイエスが持とうとする関わりはユダヤ人とサマリア人といった民族間の確執を超えていく志向と力を持っています。これは自らをキリストの体であると告白する教会がいつも心に留めておくべき事柄でしょう。教会はありとあらゆる壁を作ってはいけません。壁と合理的配慮は異なります。教会はこどもも歳を重ねたものも、いわゆる健常者も様々な障がい・病気を抱える人も、多様なルーツや性指向を持つ人も、壁を作らずに関わる場所であろうとする意識をいつも持っていなければいけません。そして最後に、神がこの世に派遣したメシア、キリストとは弱さを持つ人間として人の心の傷をよく理解してくださる存在です。そういう存在が私たちのところに来て関わりを持ってくださる。寄り添ってくださるというのは何とありがたいことでしょう。そういう人が関わってくださるから、私たちはイエスから私たちの魂の渇きを潤す活きた水をいただくことができるのです。
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