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◆ジョン・ウェスレーの経済神学に、キリスト銀行の倫理規範があるのかも?

1735年4月のことであった。ウェスレーは姉のエミリーから「父病重し」との手紙を受け取った。急いで弟のチャールスと共に故郷のエプオースに駆けつけると、父サムエルは骨と皮ばかりになって病床に横たわっており、一目でもう長くないことがすぐに分かった。
「ジョンや」。父は、まず彼を呼び寄せると、その手を握りしめて激励した。「福音は喜びの訪れだ。それは人に生きる勇気と希望を与えてくれるものだということをあらゆる人に語りなさい。特に貧しい者、虐げられている者、社会から見捨てられている者たちにそうしてほしい」

それから、そばに立っているチャールスに言うのだった。「チャールス。おまえが神をたたえる歌を作りはじめていることを知っているよ。どうか最高の賛美の歌をささげなさい。多くの人がそれによって心の平安を得られるように」

その晩から、急に容体が変わり、次の日にサムエル・ウェスレーは天に召されていった。葬儀は彼の牧していた教会で挙げられることになり、ウェスレーは説教を委ねられた。

彼は、サムエル・ウェスレーがどんなに心の正しい、曲がったことの嫌いな人であったか、そしてどんな人にも優しく親切で、子どもまでが彼を慕っていたことを語った。その生涯はまさにイエス・キリストのしもべにふさわしく、黙々と苦難を耐えしのび、迫害を受けても抵抗せず、悪意や嘲笑に対しても愛をもって報いたことを、エプオースの民を前にして語った。

「父は限りなくこのエプオースと、ここに住む人々を愛していました。その昔――私はまだ小さくてよく覚えていませんでしたが――迫害に遭って牧師館が焼き払われたとき、皆がもう少し安全な場所に移ることを勧めました。その時、父ははっきりと申しました。自分はこのエプオースの人々を心から愛している。どうして離れられよう。自分がここを去ったら、いったい誰が彼らを愛し、キリストの愛を伝えるのだ、と」

その時、集まった人々は、こらえ切れずに涙にむせび始めた。「でも、父は確信していました。いつの日にか必ずエプオースは神を信じる人で満ちあふれるだろうということを。私は、父がエプオースのために祈るとき、いつでも涙を流しているのを見ました。父の生涯は、本当に報われることの少ない、苦難に満ちたものでしたが、愛につらぬかれたものでありました」

そう言って、ウェスレーが話を終えたときである。いきなり、一人の初老の男が苦しそうに喘ぎながらよろよろと講壇に近寄ってきたかと思うと、何か言いたげに唇を震わせていたが、がっくりとサムエル・ウェスレーの棺に覆いかぶさるようにして倒れ伏した。驚いたウェスレーが抱き起こすと、男は死んでいるではないか。会衆は立ち上がると、ざわめき始めた。

「この人はなあ、先生」。一人の男が泣きながら飛び出してくると、大声で言った。「この牧師さんにあやまろうとしていただよ。いつでもそう言っていた。この人が昔、牧師館に火ィつけたからだ」

ウェスレーは、言葉もなく立ちつくしていた。「あんなことをしたもんで、ばちが当たっただな。苦しんでいた。そして、とうとう、こんなに落ちぶれて、不幸になっちまった」

髪に白いものが混じったその男は泣きながら続けた。「こんないい牧師さんに、本当に何ちゅうことしただ。でもばちが当たって、この人はひどい病気で死にかけているってうわさがあったんだけど、サムエル・ウェスレーという牧師さんが死んだと聞いて、あやまりたいと思って来たに違いないだよ。だから許してやってくだせえ!」

「おらたちだってそうだ!」そこへ、2、3人の村人が駆けてきて言った。「牛を刺し殺したのはおらだあ!」「火ィつけたの、この人だけじゃねえ。おらたち、みんなで相談してやっただよ」。「おらが、先生んちの犬を切り殺しただ!」

彼らは一緒にその場にひざまずき、ウェスレーとその家族に心から許しを乞うた。それから一同は、棺のそばに横たわった男を、サムエル・ウェスレーと並べてやったのだった。

この時から、悔い改めが波のように広がり、やがてそれがエプオース村を生まれ変わらせる運動へとつながっていったのだった。



<あとがき>

人間は自分が犯した過ちについて、理屈ではそれが悪いと知っていても、心情から納得しないと悔い改めることはないといわれています。ウェスレーの郷里エプオース村の住民もそうでした。彼らはかつて牧師館を襲撃し、家畜を殺して放火した罪を心の中で認めてはいましたが、日常生活の中でそれを忘れようとし、昼間から酒を飲み、駄じゃれを飛ばし、賭博にのめり込む――というような生活をしていました。

しかし、突然それが一変しました。サムエル・ウェスレー牧師が天に召されたのです。この時、ジョン・ウェスレーは、父がどんなにエプオースとその村人を愛していたかを切々と語りました。すると、彼らはこらえ切れなくなったように、泣きながら昔の罪を告白したのです。この中から真の悔い改めが生まれ、やがてそれは信仰復興の波となって広がってゆき、エプオース村が新しく生まれ変わるきっかけとなったのでした。まことに愛のみが真に人を生まれ変わらせることができるのでありましょう。

世界はわが教区―ジョン・ウェスレーの生涯(7)悔い改める人々 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ (christiantoday.co.jp)


つまり、賛美の歌詞の中に、祈りの言葉の中に、経済神学の中に、キリスト者倫理の信仰告白が歴史的に残っているのではないだろうか?

1
God bless you 神の御恵みが
豊かにあなたの上に注がれますように
あなたの心と身体(からだ)と
すべての営みが守られ支えられ
喜び溢れるようにわたしは祈ります
God bless you God bless you
God bless you God bless you

2
God be with you 神の御守(みまも)りが
いつでもあなたの上に注がれますように
あなたがどこにいるとしても
何をするとしてもいつでも神様が
共におられますようにわたしは祈ります
God be with you God be with you
God be with you God be with you

ジョン・ウエスレーの信仰告白、信条


ウェスレーが残した、信仰、伝道、そして神を第一にすることに関する10の言葉を紹介しよう。
1. 私はキリストの全てを私の救い主としたい。聖書に書かれている全てを私の本としたい。教会の全てを私の仲間とし、全世界を私の宣教の地としたい。

2. できる全ての良いことをしなさい。何が何でも。あらゆる手段を持って。あらゆる場所で。あらゆる時に。あらゆる人に。あなたが可能な限り。

3. 燃えなさい。そうすると、周りの人が、あなたが燃えているのを見ようと来たくなる。

4. 罪以外のものを恐れず、神以外のものを求めない100人の説教者を連れて来なさい。その人たちが聖職者であるか、平信徒であるかを私は気にしない。このような人たちが、地獄の根源を揺り動かし、この世に天の御国を造るのである。

5. 私のお金をいくら神にささげるかではなく、神のお金をいくら私が持っていたらいいのか、である。

6. 悪魔が、説教がなされている場所を好まないというのは当たり前です!私もまた、説教がなされていない場所を好みません。私は、広い部屋、柔らかいクッション、立派な説教台は好きです。しかし、1人の魂を救うために、もしそれら全てのものを捨てることがないとすれば、どこに私の情熱はあるのでしょう。

7. 神は、信じて祈ったことへの応答以外に、何もなさいません。

8. 私たちは似た考えを持てないと、愛すことができないのでしょうか? 1つの意見を持てなければ、1つの心にはなれないのでしょうか? いいえ、心配や懸念を全く持たずに、私たちはそうすることができます。小さな違いにかかわらず、全て神の子は一致することができるのです。

9. うわべだけの行いは、新しい誕生の場には成立しない。そこに成立するものは、天の下においては何もない。

10. 若い頃、私は全てのことに確信を持っていた。数年の内にたくさんの失敗をし、多くのことについて以前の半分も確信が持てなくなった。そして現在、私はほとんど何事についても確信を持てない。しかし、神が私に明らかにしてくれたことなら確信が持てる。

ジョン・ウェスレー:信仰、伝道、神を第一にすることに関する10の言葉 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ (christiantoday.co.jp)

1742年7月末のこと。母スザンナの病が重いとの手紙を受け取ったウェスレーは、チャールスと共にロンドンに赴いた。すでに臨終の床にあった愛する母は、かすかに目を開いて手を差し伸べた。
「ジョン・・・よくここまでやりましたね。つらいことがたくさんあったでしょうに。私はあなたの働きをいつも祈っていましたよ」。そして、次にチャールスにほほ笑みかけた。「あなたが賛美歌作者になったこと、本当にうれしく思っていますよ。どうか神様と人に喜ばれるような素晴らしい歌をたくさん作ってくださいね」
そして、今は成人しているサムエル、エミリー、ナンシー、ケゼーを抱き寄せて祝福すると、最後にチャールスの作った賛美歌を聞きたいと言うのだった。そこで一同は「あめつちにまさる かみのみ名を」(讃美歌11番)を歌った。その夜――7月30日深夜に母スザンナは天に召されたのだった。
深い悲しみを振り払うようにして、ウェスレーは各地に伝道の旅を続けた。ロンドン、バス、オックスフォード、ウェールス、ニューゲート、アルダス・ゲート、ブリストル、キングスウッドなどを回り、その地に建てられたメソジスト教会や孤児院、保護施設、病院などを訪ねて働く人を励まし、収容されている孤児や寡婦、病人や生活困窮者などに福音を語って慰めた。その頃、メソジスト派が始めた新しい活動に「禁酒禁煙運動」「失業者救済活動」などがあった。
一方、依然として英国国教会の迫害は続き、今後は議会で顔のきく者や新聞記者たちに悪口を吹き込み、町の人を扇動してウェスレーを憎むようにさせた。こんな時に起きたウェンズベリーでの迫害は最もひどいものだった。彼が壇上に立って語っていると、一人の軍人が剣を振りかざして近づき、脅すように言った。「あんたは国教会を追われた牧師じゃないか。何の権威があってこんな所で人を集めて話をするんだ」。そして、スラリと剣を抜いて突きつけた。
「あなたの自由になさるといい。私はここで死んでも悔いはありません。この身は神様にささげたものですから」。ウェスレーがこう答えると、軍人はさんざん脅したり悪口を投げつけたりしたが、そのまま立ち去った。すると、申し合わせたように暴徒が押し寄せて彼を壇上から引きずり降ろし、上着を剥ぎ取って殴ったり蹴ったり始めた。話を聞くために集まった群衆はあっという間に逃げていってしまった。
その時、この町の大きな食料品店の主人がウェスレーを抱き起こすと、自分の家につれて行き、けがの手当てをしてくれた上、食事を出して労をねぎらってくれたのだった。その名を聞いた途端に、ウェスレーの記憶が呼び覚まされた。「ウィリアム・ホーキンス・・・」「思い出されましたか? 昔あなたに学校でかばってもらった生徒ですよ」。そうだった。彼の代わりにウェスレーは教師からムチで打たれ、廊下に立たされたのだった。2人は堅い握手を交わした。ホーキンスは彼の手にずっしりと重い袋を乗せた。中には金貨が詰まっていた。
「あなたにお会いしたときに渡そうと思っていました。どうかあなたの尊い事業のために使ってください」。そう言ってから、彼は笑顔で付け加えた。「私の2人の子どもたちは、この町のメソジスト派の教会に通っているんですよ」
1744年にロンドンで第1回のメソジスト教団の総会が開かれたが、それ以来毎年開かれるようになり、メソジスト教団は今やしっかりと英国の地に根を下ろし、その宣教活動も充実してきた。しかしながら、ウェスレーは長年にわたっての迫害や無理がたたってか、ニューキャッスルで発熱し、宿で病床に就く身となった。
すでに結婚して所帯を持っていたチャールスは兄の身を案じ、知り合いのベロネット医師を通してウェスレーにある女性を紹介した。ロンドンの商人の未亡人のバジール夫人で、教育も信仰もあるしっかり者だったので、ウェスレーにふさわしい相手と判断したのだった。こうして1751年2月18日。バジール夫人は4人の連れ子と共にウェスレーのもとに嫁いできたのである。
しかしながら、この結婚は大きな不幸をウェスレーにもたらすことになる。夫人は病的なヒステリー性格で、気に入らないことがあると、とことん相手を叩きのめすのだった。彼女は結婚して4カ月とたたないうちに、もう夫に向かって不平を言うようになり、あの手この手で彼を苦しめた。

<あとがき>
波乱に満ちた人生のことを、私たちはよく「数奇な人生」と呼んでいますが、まさにウェスレーの生涯は、普通の人が体験できないような不思議な出来事に満ちたものでした。しかし素晴らしいのは、そうした一つ一つの出来事がすべて神の恩寵によって支えられていることであります。1742年のウェンズベリーにおける事件もそうでした。彼が壇上に立って説教していると、一人の軍人がやってきて剣を突きつけて脅し、続いて暴徒たちが襲いかかって彼を袋叩きにしました。
この時、この町の食料品店の主人であり町の名士でもある人が彼を助け、自宅につれて行って傷の手当てをしたり食事を振る舞ってくれたりしたのです。驚いたことに、彼こそ昔チャーターハウスの学校でウェスレーが身をもってかばってやった旧友のウィリアム・ホーキンスだったのです。さらに、ウェスレーはこの後不幸な結婚をすることになるのですが、その中にも深い神の恩寵があったのでした。

世界はわが教区―ジョン・ウェスレーの生涯(16)母の死と不幸な結婚 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ (christiantoday.co.jp)





#アンネの法則の山下安音です。私のライフワークは、平和学研究とピースメディア。VISGOのプロデューサーに就任により、完全成果報酬型の教育コンテンツと電子出版に、専念することになりました。udmyとVISGOへ動画教育コンテンで、世界を変える。SDGs3,4の実現に向けて一歩一歩