◆スコットランド信条、信仰告白から学ぶ国の仲間とキリスト者倫理の関係性
スコットランド信条(スコットランドしんじょう、英:Scottish Confession)は、スコットランド教会(スコットランド長老派教会)の最初の信仰告白である。神学的にはカルヴァン主義である。ジョン・ノックスと5人の牧師たちによって4日間で書き上げられた、使徒信条の構成順に25条からなる信条である。1560年にスコットランド王国議会で承認され、1647年にウェストミンスター信仰告白が国会で採用されるまでスコットランド教会の信条であった。
第1章 神
第2章 人類創造
第3章 原罪
第4章 約束の啓司
第5章 教会の存続、成長、維持
第6章 キリストの受肉
第7章 なぜキリストは神と人間であらねばならなかったのか
第8章 選択
第9章 キリストの死、苦難、埋葬
第10章 復活
第11章 昇天
第12章 聖霊への信仰
第13章 善行の理由
第14章 神に善行とみなされる行ないとは
第15章 律法の完全と人間の不完全
第16章 教会
第17章 魂の不死
第18章 正しい教会は偽りの教会と区別されるべきか、また教えの審判者か
第19章 聖書の権威
第20章 総会議の権威と召集理由
第21章 聖礼典
第22章 聖礼典の正しい方法
第23章 聖礼典は誰に施すべきか
第24章 行政担当官
第25章 教会に無償で与えられている賜物
スコットランド王国のプロテスタント
によって信じられ告白された
信仰と教理の
信仰告白
1560年8月にスコットランド全議会に提示され、
神の誤りない御言葉に基づく教理として
全議会の公開の投票によって批准され
後に議会の各種の決議と
合法的な教会総会議
によって確立され
公認された
マタイによる福音書 24章
そして御国のこの福音は
あらゆる民への証しとして
全世界に宣べ伝えられる
それから、終わりが来る
スコットランド全議会は、イエス・キリストの聖なる福音を告白するスコットランド住民と共に、仲間である同胞に対し、また共に主イエスを告白する他のすべての国民に対して、救いのために、私たちの主イエス・キリストの父なる神から、正しい裁きをなさる聖霊によって、恵みと憐れみと平安があるように祈ります。
親愛なる兄弟たちよ、私たちは、私たちが告白する教理とそのために虐待と危険に直面してきたことを世界中に知らせたいと長い間切望してきました。しかし、私たちに逆らい、私たちの間に最近新しく生まれたキリストの永遠の真理に対するサタンの怒りは非常に激しかったので、今日まで、私たちが喜んで成し遂げたいと望んでいたことを実現するために、私たちの良心を表明する時間も機会も持ち合わせていませんでした。なぜなら今日まで、私たちがどれほど苦しんできたかについては、ヨーロッパの大部分がよく知っていると私たちは思うからです。
しかし、私たちの神 (この方はご自分に属する苦しんでいる者を徹底的に打ちのめすほどに苦しめることは決してなさいません) の限りない善意によって、私たちは予期しない安息と自由を得ましたので、私たちの前に提出された、私たちが信じ告白するこの簡潔で明瞭な教理の告白を明らかにしなければなりませんでした。それは一つには、私たちに対する中傷によって、これまでに心を悲しませ、今も悲しんでいる兄弟たちを満足させるため、もう一つには、聞いたことのない、また分かってもいないことを大胆にも断罪する無分別な冒涜者を沈黙させるためでした。
私たちはこのような悪意が単に私たちの信仰告白によって癒されるとは思いません。なぜなら、私たちは福音の芳香が滅びの子たちにとっては死であり、また将来死となるであろうからです。しかし、私たちは主として私たち自身より弱い兄弟たちを考えているのです。彼等に対して私たちは最も深い思いを伝えたいのです。それはサタンが、私たちに対抗して神聖な企てを潰そうとして広めているさまざまな噂によって、兄弟たちが困惑したり、心を奪われたりしないためです。
もしも誰かが私たちの信仰告白の中に、神の聖なる御言葉に反する章句か文章があることに気づいたならば、親切から喜んで、そしてキリスト者の愛の故に、私たちにそのことを文書で知らせるべきであると主張します。私たちは名誉にかけて、神の恵みによって神の口から、すなわち聖書から、彼が満足する回答を与えることをはっきり約束します。また彼が誤りであると証明できることは何であれ改めることにやぶさかでありません。なぜなら私たちは神を呼び求めて、心から異端的分派と誤った教理の教師たちすべてを嫌悪することを記録し、謙遜の限りを尽くしてキリストの福音の純粋さを受け入れることを記録するからです。それは私たちの魂の唯一の食物ですから、私たちにとって大変貴重なものですので、私たちの魂からそれが詐取せられるよりは、この世の最大の危険に直面することを覚悟します。なぜなら誰でもキリスト・イエスを否むか人々の面前で主を恥じる者は、父の前で、また父の聖なる天使たちの前で否まれることを私たちは確信しているからです。それゆえ私たちの主イエス・キリストの力ある御霊の助けによって、以下の各章にある信仰告白をして終わりまで耐え忍ぶつもりです。
第1章 神について
私たちは唯ひとりの神を告白し、また認めます。私たちはこの方にのみ固執し、この方にのみ仕え、この方のみを礼拝し、この方にのみ信頼を置かなければなりません。
この方は永遠、無限、測りがたく、知り尽くし得ず、全能で、見えません。しかし本質は一つ、位格は父、子、 聖霊の三つに区別されます。私たちは、天地にあるものは、見えるものも見えないものもすべて創造され、その存在を保たれ、計り知れない摂理によって、永遠の知恵、善、正義が神御自身の栄光を現すように定められた目的に添って治められ、導かれていると聖霊によって告白し、信じます。
第2章 人間の創造について
私たちは、私たちの神が、男を、すなわち私たちの最初の父アダムを御自身の像と姿に似せて創造され、彼に知恵、支配、正義、自由意志、そして自分自身についての明確な知識を与えられたので、人間の聖なる性質に不完全は全くあり得ないことに注目しなければなりません。
しかし、その名誉と完全から男も女も共に堕落しました。すなわち女は蛇に騙され、男は女の声に従い、両者は共に謀って神の主権に逆らいました。神ははっきりとみ言葉の中で、もしも彼等が禁じらた木から取って食べるなら必ず死ぬとあらかじめ警告しておられました。
第3章 原罪について
通常、原罪と言われる罪過により、人の中にあって神の像は全く損なわれ、人とその自然の関係によって生まれる子孫は、神の敵、サタンの奴隷、そして罪の僕になってしまいました。こうして永遠の死が、上からの再生を受けていなかった者、また現在受けていない者、また将来受けないであろうすべての者の上に力と支配を振るってきたし、またそうし続けるでしょう。
この再生は、神の選民の心の中に、御言葉によって私たちに啓示された神の約束を固く信じる信仰を生み出される聖霊の力によってなされるのです。この信仰によって私たちは、キリスト・イエスによって約束された数々の恵みと祝福と共に、この方を理解するのです。
第4章 約束の啓示について
このゆえに、私たちは常に以下のように信じます。すなわち人間が服従から、恐ろしい、ぞっとするような背反に傾いてのち、神は再びアダムを捜し求め、招き、責め、自分の罪を認めさせ、遂には最も喜ばしい約束をなさいました。それは、「女の子孫は蛇の頭を砕く」、すなわちその子孫は悪魔の業を滅ぼすという約束でした。この約束は繰り返され、時が進むにつれて一層はっきりしてきました。
そしてその約束は喜びをもって心の中に受け止められ、アダムからノア、ノアからアブラハム、アブラハムからダビデ、こうして遂にはキリスト・イエスの受肉までに至るすべての信仰深い人々によって不断に受け入れられてきました。すなわち、すべての者(律法の下にあった信仰深い先祖たちを意味します)はキリスト・イエスの喜びに満ちた日を望み見て歓喜したのでした。
第5章 教会の存続、 成長、 保持について
私たちは確かに次のように信じなければなりません。すなわち神は、アダム以後キリスト・イエスが肉において来られるまでのすべての時代における教会を、保持し、教え、増やし、誉れを着せ、飾り、死から命に召されました、と。なぜなら神はアブラハムを先祖の国から召し、教え、子孫を増やし、驚嘆すべき方法で彼を守り、さらに驚くべきことにはその子孫をファラオの奴隷と圧政から救い出し、彼等に律法と諸規定と儀式をお与えになり、カナンの地を与え、その後は士師たちを、のちにはサウロを与え、遂にはダビデを王として与え、彼の腰から生まれるひとりを永遠に彼の王座に座らせるという約束をお与えになったからです。
神はこの同じ民に代々にわたって預言者たちを送られ、民を神の正しい道に呼び戻されました。しかしながら、彼等はそこからしばしば偶像礼拝へと傾きました。彼等の義に対するかたくななまでの冒涜の故に、神はかつてモーセの口をとおして警告されていたとおり、あえて彼等を敵の手に渡されたので、聖なる都は破壊され、神の宮は火で滅ぼされ、70年間、全土は荒れるままに放置されました。
しかしながら、神は憐れみによって彼等を再びエルサレムに帰されました。そこに都と神の宮は再建され、そこで彼等は約束に従ってメシアが来られるまで、サタンのあらゆる誘惑と攻撃に耐えたのです。
第6章 キリスト・イエスの受肉について
時の満ちるに及んで、神は御子、永遠の知恵であられ、御自身の栄光の本質であられる方をこの世に送られました。この方は女、すなわち処女の本質から人間性をお取りになりました。それは聖霊のお働きによるものでした。こうしてまさしくダビデの末、神の偉大なる御旨の御使い、約束されたメシア本人がお生まれになりました。この方を私たちはインマヌエル、真の神、真の人、二つの完全な二性が一つの位格に結び合わされていると告白し認めます。
この私たちの告白ゆえに、私たちはアレイオス、マルキオン、エウティケス、ネストリオスの呪うべき危険な異端を拒否します。その他、その神性の永遠性、あるいは人間性の真実性を否定した者、あるいは二性を混同、あるいは分離した者も同罪です。
第7章 何故、仲保者は真の神と真の人でなければならなかったのか。
私たちは以下のことを認め、告白します。すなわち、キリスト・イエスにある神性と人性の間の驚嘆すべき一致は、神の永遠不変のみ旨から出ており、そのみ旨から私たちの救い全体が出ており、またそれに依存しています。
第8章 選び
同一で永遠の父なる神は、ただ恵みによって、この世界の基が据えられる前から、私たちを御子キリスト・イエスにあって選び、御子を私たちの頭、兄弟、牧者、魂の偉大な監督に任命されました。しかし神の義と私たちの罪の間の対立は、いかなる肉もそれ自身では神に到達できず、あるいはそれを許されなかったので、神の御子が私たちのために降られ、御自分の上に私たちの身体の身体、肉の肉、骨の骨を取られ、神と人との間の仲保者になられ、御子を信じる多くの者が神の子となるために力を与えてくださらなければなりませんでした。すなわち、それはちょうど御子御自身が、 「私は私の父またあなた方の父、私の神またあなた方の神のもとに昇るのである」と言われているとおりです。
私たちがアダムにおいて失っていた最も聖なる兄弟関係が再び回復されるのです。それゆえに私たちは神を私たちの父と呼ぶことを恐れません。それは神が、見捨てられた者と兄弟関係を持つ者として私たちを創造されたからではなく、むしろ独り子を私たちの兄弟となるようにしてくださり、御子を私たちの唯一の仲保者として認め、受け入れる恵みをくださったからです。
さらに、メシアは真の神であり、真の人でなければなりませんでした。なぜなら、メシアは私たちの罪過の罰を受け、御自身を私たちに代わって父の裁きの前に差し出し、私たちの罪過と不服従のために苦しみ、死を通して死の作者であるものに打ち勝つことができなければならなかったからです。しかし、神性だけでは死を苦しむことは出来ず、人性では死に打ち勝つことが出来ないので、メシアは一つの位格に両性を共に結合しておられたのです。
こうして、一方の弱さによって苦しみ、死に,- 私たちはこの死に値する - 他方の無限で無敵の力、すなわち神性は勝利し、私たちのために命、自由、そして恒久の勝利を買い取ってくださらなければなりませんでした。そのように私たちは告白し、また堅く信じます。
第9章 キリストの死、苦難、埋葬
私たちの主イエスは、御自身を自発的ないけにえとして、私たちに代わって御父に捧げられました。主は罪人の反抗に悩まれました。主は私たちの罪過のために傷を負われ、苦しまれました。主は神の聖い、無垢な小羊であられましたが、この世の裁判官の前で断罪されました。このゆえに、私たちは神の裁きの御座の前で赦しを得ました。
主は神の宣告を受けられ、呪われた十字架の過酷な死を苦しまれたのみならず、しばらくの間、罪人が受けるはずの御父の呪いを受けられ、苦しまれました。しかしながら、民の罪のために全き贖いとなられるために、体と魂において苦しまれた苦悩と苦痛の真っ只中にあってさえも、主は御父の愛する、祝福された独り子であられたと私たちは告白します。
このゆえに、私たちは他には罪のためのいけにえは全く存在しないと言明します。もしも他にもあると主張するなら、その主張者たちはキリストの死と私たちのために買い取られた永久の贖いを冒涜する者である、と私たちははかることなく断言します。
第10章 復活について
私たちは確信します。死の悲しみが、命の創造者を囚われの身に留めて置くことは不可能であったので、十字架に架けられ、死んで葬られ、陰府に下られた私たちの主イエスは、私たちを義とするために甦られ、死の作者であった者を滅ぼし、死に支配されその奴隷になっていた私たちに再び命をもたらしてくださったと。私たちは知っています。
主の復活は、主の敵そのものの証しにより、死人の復活によって確証されました。彼等の墓は開き、彼等は甦り、エルサレムの都の中の多くの者たちに現れました。それはまた主の天使たちの証しと、使徒たちと、また主の復活後、主と言葉を交わし、飲み食いを共にした他の者たちの感覚と判断力によって確証されました。
第11章 昇天について
処女より生まれ、十字架に架けられ、死んで、葬られ、再び甦られたあの御体がすべてのことを成し遂げられるために天に昇られたことを私たちは決して疑いません。そこで私たちの名でもって、また私たちの慰めのために、主は天地における一切の権能を受けられました。そして御国を受けられ、私たちのための弁護者、また唯一の仲保者として、父の右の座に着いておられます。
主のみが、兄弟の間でその栄光、栄誉、大権を持っておられます。それはすべての主の敵が足台とされるときまでです。敵どもは必ず最後の審判を受けると私たちは信じます。すなわち私たちは主イエスは天に昇られる時に見られたと同じ見えるお姿で最後の審判のために再び来られることを信じます。それから私たちは、すべてのものを新しくし回復される時が来ること、またその時、初めから義のため暴虐、傷害、恥辱に悩まされた者たちが、初めから約束されていた不死の祝福を受け継ぐことを堅く信じます。
しかし他方、心かたくなで、不服従で、残虐な圧政者たち、不潔な者たち、偶像崇拝者たち、そしてすべてその類の不信仰者たちは、蛆が尽きることも、火が消えることもない全き暗闇の地獄に投げ込まれるでしょう。その日、その中で執行されるべき審判を思い起こすことは、私たちの肉欲が抑制される手綱であるのみならず、また計り知れない慰めでもあるので、この世の君たちの脅しも、この世の死も、現在の危険も、私たちを動かして、肢体である私たちが、その頭であり、唯一の仲保者である、キリスト・イエスと共有しているあの祝福された共同体を否認させたり、捨てさせたりすることはありません。
すなわち私たちはこの方を約束のメシア、教会の唯一の頭、私たちの律法賦与者、唯一の大祭司、擁護者、また仲保者であると告白し、承認します。人間であろうと天使であろうと、これらの名誉と職務とに押し入ろうとする者があれば、私たちは自分たちの主権者、至上の統治者キリスト・イエスを冒涜する者として彼等を徹底的に憎み、また嫌悪します。
第12章 聖霊への信仰
この私たちの信仰と確信は、肉と血から、すなわち私たちの中にある自然の力からではなく、聖霊の霊感から出ます。私たちは聖霊を父と御子と同等の神であられ、私たちを聖め、御自身の働きによってすべての真理に導かれると告白します。この方なしには私たちは永遠に神の敵として留まり、御子キリスト・イエスを知りません。なぜなら私たちは生来死んでおり、盲目で、曲がっているので、苦しめられても感じず、光が輝いても見えず、神のみ旨が啓示されても同意しないからです。
もしも主イエスの御霊が死んでいる者を生かし、私たちの心から闇を取り除き、御霊のみ旨に服従するよう、私たちのかたくなな心をへりくだらされないかぎりはそうです。そういうわけで私たちは、自分たちがまだ存在していなかった時に、父なる神が私たちを造り、私たちが主の敵であった時に、御子であられる主イエスが私たちを贖ってくださったと告白します。
それと同じように、私たちはまた、たとえ再生の前であろうと後であろうと、私たちから出るどのような功績も考慮にいれず、ただ聖霊が私たちを聖め、再生させてくださると告白します。このことを更に分かりやすく言うならば、私たちは自分自身の被造性と贖罪について自らに何がしかの名誉や栄光を帰することを心から拒否するように、私たちの再生と聖化についても喜んで同じようにします。なぜなら、自分自身では唯の一つも良いことを考えることができず、私たちの中で働きを始められたお方のみが私たちをそのみ業の中に留めさせ、受けるには分不相応な恵みの賛美と栄光へと歩ませてくださるからです。
第13章 善行の原因
善行の原因は、私たちの自由意志にあるのではなく、真の信仰の故に私たちの心の中に住まれる主イエスの御霊であると告白します。御霊は、私たちが行うために神が用意された善行をもたらしてくださいます。それゆえ、聖化の霊がおられない者の心の中に、キリストが住んでおられるということは冒涜であると私たちは大胆に主張します。
このゆえに、私たちは以下のことを主張することをためらいません。すなわち、殺人者、抑圧者、残忍な迫害者、姦淫を行う者、不品行者、汚れた者、偶像礼拝者、泥酔者、盗賊など、すべて悪を行う者は、かたくなに悪を続ける限り、まことの信仰を持たず、主イエスの御霊を全く持っていないと。なぜなら、神が選ばれた子たちが真の信仰によって頂く主イエスの御霊は、いかなる人であれ、その心を占有するや否や、その人を再生させ、新しくされるからです。それゆえ、その人は以前愛していたことを憎み始め、以前憎んでいたことを愛し始めます。
こうして、神の子たちの中で肉と御霊との間に絶え間ない戦いが起こり、一方では、腐敗した肉と生まれながらの人間は、自分に心地よく喜ばしいことに欲望を懐き、逆境においては妬み、順境においては高ぶり、絶えず神の尊厳を犯しがちであり、今にもそうしそうです。しかし他方、私たちが神の子であると私たちの霊に証しする神の御霊は、汚れた楽しみには私たちを抵抗させ、神の御前でこの腐敗の束縛からの救いを渇望させ、遂には罪に勝利させ、罪が私たちの死ぬべき肉体を支配しないようにしてくださいます。
他の者たちは神の御霊を持っていませんから、このような戦いはありません。彼等は悪霊と自分たちの腐敗した性質が促すままに行動するので、容易に罪に従い、後悔することもありません。しかし、神の子たちは罪と戦います。そして、悪を行うように誘惑されたことが分かったときには嘆き悲しみます。そして、堕落しても、熱心と誠実な悔い改めをもって再び立ち上がります。彼等はこれらのことを、自分自身の力によってではなく、主イエスの力によって致します。この方を離れては彼等は何もすることはできません。
第14章 神の御前に善とみなされる行いは何か
私たちは以下のように告白し、認めます。すなわち、神は人に聖なる律法を与えられたということ、そして、その中で、神の神聖な大権を損ね、犯すことを禁じておられるのみならず、神を喜ばせ、報いを与えると約束されたことをすべて行うことが命じられているということです。これらの行いは二種類からなっています。一つは、神の栄誉のためになされることであり、他は隣人の益となることを行うということです。そして、両者は神の啓示されたみ旨によって保証されています。
唯一の神を持ち、礼拝し、崇めること、どのような困難の中にあっても神を呼ぶこと、聖なる御名を尊ぶこと、御言葉を聴くこと、それを信じること、聖なる礼典にあずかることは第一の板の行いです。父、母、諸侯、支配者、上に立つ権威を敬い、彼等を愛し、支え、神の戒めに反しない限りは彼等の命令に服従すること、無罪の者の命を救うこと、専制を抑え、抑圧される者を守り、私たちの体を清潔かつ聖く保つこと、誠実に落ち着いて生活し、すべての人を言葉と行いにおいて正しく扱い、そして最後に、私たちの隣人に害を与える思いをすべて抑えることは第二の板に属する善行です。そしてこれらは神御自身がお命じになった事柄として神に最も喜ばれ、受け入れられる行いです。反対の行為は罪です。以下の事柄は常に神を不快にし、怒りを引き起こします。
すなわち、必要な時に神のみを呼ばず、敬意をもって神の言葉を聴かず、かえってそれを非難し、軽蔑し、偶像を持ち、それを礼拝し、偶像礼拝を保持し、擁護すること、神の敬うべき御名を軽視し、キリスト・イエスの礼典を冒涜し、乱用し、非難すること、神が権威ある位置に置かれた人に服従せず、抵抗すること(彼等が職務の限度を超えていないにも拘らず)、人を殺すこと、またはそれに同意すること、憎しみを懐くこと、私たちが防ぐことができたにもかかわらず無垢の者の血が流されたことなどです。要するに、第一または第二の板のいかなる戒めの破棄も罪であると私たちは告白し認めます。それらによって神の怒りと不快は、誇り高く、感謝のない世に対して燃え上がります。
こういうわけで、私たちは以下の事柄のみを善行と主張します。すなわち、信仰により、また神の戒めに従ってなされた行いのみです。神は、律法の中に、御自身を喜ばす事柄を示しておられます。私たちは、悪行とは、明らかに神の戒めに反してなされる行為のみならず、また、宗教的な事柄と神礼拝においては、人間の発明と見解以外には何も保証のない事柄も言うのです。初めから、神はそのようなことを拒否してこられました。私たちが、預言者イザヤと私たちの主キリスト・イエスの「空しく彼等は私を礼拝し、教理と人の戒めを教えている」という言葉から学ぶとおりです。
15章 律法の完全と人間の不完全
私たちは、神の律法は最も正しく、最も公平で、最も聖く、最も完全で、完全に遵守された時に、命を与えることができ、また永遠の幸いを人間にもたらすことを命じていると告白し認めます。 しかし、私たちの本性は余りにも腐敗し、余りにも弱く、余りにも不完全なので、私たちは決して律法の行いを完全に遵守することはできません。 もしも私たちに罪がないと言えば、再生された後でさえも、私たちは自分自身を欺き、従って神の真理は私たちの内にありません。それゆえ、私たちはキリスト・イエスをしっかりと把握して離れず、彼の義と贖いの内に留まらなければなりません。
主こそは律法の終わりであり、完成であるからです。また、主によって私たちは自由にされたのですから、律法をすべての点で成し遂げなくても、神の呪いは私たちの上に下りません。なぜなら父なる神は御子キリスト・イエスの御体の中に私たちをご覧になり、私たちの不完全な服従をあたかも完全であるかのように受け入れ、多くの汚点で汚れている私たちの行いを御子の義をもって覆ってくださるからです。
私たちは自由にされたのですからもはや律法に従う必要はない、と言っているのではありません。[このことについてはすでにはっきりと告白しているとおりです] が、私たちは下記のとおり明言します。すなわち、キリスト・イエスを除いて、この世の人間は誰も律法が要求する行いを行うことによって服従しなかったし、していないし、将来もしないでしょう。しかし、私たちがすべてのことを行ったとしても、跪いて私たちは無益な僕です と真心から告白しなければなりません。それゆえ、自分の行いの功績を誇るか、あるいは功徳の業に信頼を置く者は誰でも、ありもしないことを誇り、憎むべき偶像崇拝に信頼を置く者です。
第16章 教会について
私たちはひとりの神、 父、子、聖霊を信じます。それと同じように、私たちは一貫して以下のことを信じます。すなわち、初めからあり、今もあり、世の終わりまであるもの、すなわち教会、神が選ばれた人々の集団であり群れであるもの、それはこの教会の唯一のかしらであるキリスト・イエス の体であり花嫁でもあります。
その教会は公同、すなわち普遍です。なぜなら、それはあらゆる時代、あらゆる王国、民族、言語、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、聖霊のきよめによって父なる神とキリスト・イエスとの交わりと交流を持つものであるからです。それゆえ、それは汚れた者たちの交わりではなく、天のエルサレムの市民として、計り知れない果実、ひとりの神、ひとりの主イエス、ひとつの信仰、ひとつの洗礼を持つ聖徒の交わりと呼ばれます。
この教会の外には命も永遠の至福もありません。それゆえ、私たちは以下のことを徹底的に嫌悪します。すなわち、告白した宗教が何であれ、公正と正義に従って生きる者は救われると主張する者の冒涜を徹底的に嫌悪します。キリスト・イエスなくしては命も救いもないからです。父が御子キリスト・イエスに与えられた者と時至ってキリストのもとに来て、キリストの教えを認め、キリストを信じる者たちの他は誰もその中に参与することはできません。(私たちは信仰深い両親の子供たちを含めます)。
この教会は見えず、ただ神にのみ知られており、神のみが誰を選んだかをご存知です。そしてこの教会は、この世を去った選ばれた者たち (一般に勝利の教会と呼ばれる者たち)と、現在正しく生き、罪とサタンに激しく抵抗している者、また将来生きるであろう者たちを含みます。
第17章 魂の不死について
この世を去った選民は、平和の内におり、労苦を解かれて休息しています。しかし彼等は、ある狂信者たちが主張するように、眠っているのでも、また忘却のかなたに失われているのでもありません。なぜなら彼等は、この世の生活では私たちと神の選民すべてが支配されているような、それゆえに私たちは戦闘の教会と呼ばれていますが、あらゆる恐れと苦しみと誘惑から解放されているからです。
これとは全く反対に、この世を去った見捨てられた者と不信仰者とは、口では言い表せないほどの苦悩と苦痛と痛みを味わっています 。こういうわけで、どちらの者も喜びも苦痛も感じないような眠りについているのではありません。それはルカ16章 のキリスト・イエスの喩え話しと強盗へのお言葉 、そして祭壇の下で叫んでいる魂の言葉、「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」によって証しされているとおりです。
第18章 真の教会が偽りの教会から区別されるべきしるしと教理の裁判人は誰かということについて。
サタンは初めから、害毒を流す会堂を神の教会の名称をもって飾ることに努め、残虐な殺人者たちの心を燃え立たせ、真の教会とその会員を迫害し、悩まし、苦しめました。それはちょうどカインがアベルに、イシマエルがイサクに、エサウがヤコブに、ユダヤの祭司長がキリスト・イエス御自身と後の使徒たちにしたと同じです。
絶対必要なことは、聖く、完全なしるしによって、まことの教会を汚れた会堂から区別しなければならないということです。それは、私たちが騙されて、私たち自身の滅びに、真の教会に代えて偽りの教会を受け入れ、抱え込んで、自分自身に滅びを招かないためです。キリスト・イエスの汚れなき花嫁が、恐るべき娼婦、すなわち偽りの教会と違うしるし、目印、確かな証拠は、その古さ、僭称された称号、家系、定められた場所でもなければ、誤りに同意している人間の数でもないと、私たちは言います。
その理由は、年齢と称号ではカインはアベルとセツにまさっていましたし、エルサレムは地上のどの場所よりもまさっていました。なぜなら、その中で祭司たちはアロンの家の世襲であり、キリスト・イエスを誠実に信じ、その教えに従う者たちよりも多くの者たちが、律法学者たちやパリサイ派、また祭司たちに従っていたからです。しかし、健全な判断力を持つ人々は誰もこれらの人々が神の教会だったとは考えないだろうと思います。
それゆえに、真の教会のしるしは以下の通りであると私たちは信じ、告白し、言明します。先ず第一に、神の御言葉の説教です。その中で神は、預言者や使徒たちの書が宣言しているように、ご自身を私たちに啓示しておられます。第二に、キリスト・イエスの聖礼典の正しい執行です。聖礼典と共に、それらを私たちの心に封印し、堅くするために、神のみ言葉と約束が伴っていなければなりません。
そして最後に、神のみ言葉が言っているように、教会の戒規が正しく行われなければなりません。それによって悪徳は抑制され、徳は養われます。それでどこでもこれらのしるしが見られ、いつでも存続しているところでは、その人数が二人または三人を下ることがなければ、そこにはキリストの真の教会があることは間違いありません。約束に従って、キリストはその真中におられるのです。これは以前に述べた普遍的教会ではなく、パウロの働きによって植えられたコリント、ガラテア、エフェソ、その他の各個教会のことです。彼自身、これらを神の教会と呼んでいます。
私たち、キリスト・イエスを告白しているスコットランド王国の住民は、自分たちの都市や町、また教会で教えられている神のみ言葉、すなわち旧新両約聖書 (これらは最初から正典とみなされている書ですが)に含まれている教理の故に改革派と呼ばれている地域に、そのような教会を持っていると強く主張します。私たちは、これらの書の中に、人が救われるために信じなければならないすべてのことが、十分に言い尽くされていると確信をもって主張します。
聖書の解釈は、いかなる個人または公人にも属さず、また他の上に立つ個人的あるいは地方的な卓越性や優位性を理由にするいかなる教会にも属さず、聖書を書かれた神の霊に属します。聖書のある句あるいは文章の正しい理解について、また神の教会内でのある悪弊の改革のために論争が起るとき、聖霊が聖書の本体の中で一貫して語っておられ、キリスト・イエス御自身がなされ、また命じられたこと以上に私たち以前の人間が何と言ったか、何をしたかを尋ねるべきではありません。
なぜなら、一致の霊であられる神の霊が御自身矛盾することはできないということはすべての人々が一致していることだからです。それだから、もしもある神学者、教会、あるいは教会会議の解釈あるいは見解がそれを承認し受け入れたとしても、これは聖霊の真の理解や意味でないことは明々白々です。私たちは、私たちの信仰の主要点、聖書の明白な聖句、愛の基準に反するいかなる解釈も受け入れたり、認めたり致しません。
第19章 聖書の権威について
私たちは、神の聖書は神の人を教え、完全にするのに十分であると信じ告白すると同じように、その権威は神から出るのであって、決して人間あるいは天使によるのではないと主張し誓います。それゆえ、聖書は教会から受けた以外に他のいかなる権威も持っていないと言う者は、神を冒涜するのであり、真の教会にとって有害であると主張します。真の教会は、花婿また牧者の声に常に聴き従い、花婿を支配する女支配者の立場を取りません。
第20章 総会議、その権威、 召集の理由
私たちは、合法的に会議に集まった敬虔な人々が、私たちの前に提案した事柄を、せっかちに非難しませんが、同時に総会議の名のもとに人々に宣言される事柄を無批判に受け入れることも致しません。なぜなら、人間ですので、ある人々はたいへん重大で、重要な事柄に関して明らかな誤りを犯したからです。こういうわけで、総会議が神の明白な御言葉に従って決定し命令する限りは、私たちはそれを尊び受け入れます。
しかし、もしも人間が総会議の名のもとに、信仰に関して新しい条項を作り出そうとしたり、神の御言葉に反する決定をしたりする場合には、それは私たちの唯一の神のお声から私たちの魂を逸らし、人間の教理と教えに従わせる悪魔の教理として断固拒否します。総会議が開催される理由は、神がいまだ作っておられない律法を勝手に作って、恒久の律法にするためではなく、私たちの信仰のために新しい信仰箇条を作るためでもなく、神の御言葉に権威を与えるためでもありません。
ましてや、前もって神が御言葉の中にみ旨を言い表しておられないことを御言葉としたり、その真の解釈であるとしたりすることでもありません。少なくとも総会議の名に値する会議を開催する理由は、一つは異端を論駁し、後の代の人々に対して信仰の公の告白をすることです。このことを彼等は神の書かれた御言葉の権威によってするのであって、総会議であるからという理由で誤ることはあり得ないという見解や特権によるのでは断じてありません。
これが総会議の第一の理由であると私たちは判断します。第二の理由は、教会内に健全な政治と秩序が作り出され、維持されるためです。そこでは、神の家の中にあるに相応しく、「すべてを適切に、秩序正しく行う」ようになります。どのような政治も儀式の秩序も、どの時代にも、時期にも、場所にも固定され得ると考えているのではありません。なぜなら、人間が考え出した儀式は一時的でありますから、教会の徳を立てるよりも迷信を助長するときには、変えられるでしょうし、また変えなければならないからです。
第21章 聖礼典について
律法のもとにおける父祖たちは、実の動物犠牲の他に二つの主な聖礼典、すなわち割礼と過越祭を持っていました。そして、これらを軽蔑し、非難する人々は神の民とはみなされませんでした。それと同じように、今や私たちは福音の時代において、主御自身が制定され、主の体の肢にふさわしい人々すべてが行うように命じられた二つの主な聖礼典のみ、すなわち洗礼と晩餐あるいは主イエスの食卓のみを持っていると認め告白します。
これは主の体と血との交わりとも呼ばれています。これらの聖礼典、すなわち旧約の二つと新約の二つは共に神によって制定されたものであり、ただに主の民と契約の外にいる者との間に見える相違を造り出すためだけではなく、神の子たちが信仰を実践するため、そしてこれらの聖礼典に参加することによって彼等の心の中に主の約束に対する確信を封印し、選ばれた人々がその頭キリスト・イエスと共に持っている最も祝福された結合、結びつき、共同体の中にいるという確信を印しつけるためでもあります。
それゆえに、私たちは聖礼典が裸でむき出しのしるしに過ぎないと主張する人々の虚栄を断固として断罪します。否、洗礼によって私たちはキリスト・イエスの義にあずからせて頂くために主に接ぎ木され、それによって私たちの罪は覆われ、取り除かれたと堅く信じます。それと同じように、正しく用いられる聖晩餐において、キリスト・イエスは私たちと結合されているので、主は私たちの魂の栄養そのもの、また食べ物になると堅く信じます。
私たちは、教皇主義者たちが有害な教えをし、呪われるに値する誤った信仰をもって信じてきたような、すなわちパンがキリストの身体に、ぶどう酒が主の血そのものに変化するとは決して考えません。かえって私たちは聖礼典の正しい執行によってキリスト・イエスの体と血にあずかって持つこの結びつきと結合とは聖霊がなさるみ業であると考えます。聖霊は、真の信仰によって私たちを、見える肉的でこの世的なすべての上に携え行き、かつては私たちのために裂かれ、血を流されたが、今は天にあり私たちのために神のみ前に現れておられるキリスト・イエスの体と血によって私たちを養っておられます。
今、天の栄光のうちにある主の体とこの世にあって死ぬべき私たちの間は遠く隔たっているにもかかわらず、私たちが裂くパンはキリストの体にあずかり、また私たちが祝福する杯は主の血にあずかることであると私たちは堅く信じます。それゆえに、私たちは下記のように告白し、疑うことなく信じます。信者は、主の食卓の正しい使用によって、主イエスの体を食べ、血を飲むのですから、主は彼等のうちに留まられ、彼等は主のうちに留まっていると。こうして、彼等は主の肉の肉、骨の骨とされたのですから、永遠の神は、本来は腐敗し得、死に至るキリスト・イエスの肉に命と不死とを与えられたように、キリスト・イエスの肉と血を食べ飲むとき、私たちにも同じようになさいます。
私たちは、これはただ聖餐の時に私たちに与えられるのではなく、また聖礼典の力と価値のみによって与えられるのでもないと告白し、信者は主の食卓の正しい使用によってキリスト・イエスと一つになると断言します。これは生来の人には理解できないことです。更に私たちが断言することは、信者といえども怠惰と人間的な弱さに圧倒されて、聖晩餐にあずかるその瞬間の行為において、受けるべきはずの益も受けることができないことはあるけれども、後で良い地に蒔かれた生きた種のように実を結ぶであろうということです。なぜなら、聖霊は、主イエスが正しく制定された聖餐から絶対に逸脱されることはあり得ませんし、信者からその神秘的な行為の実を奪い取られることもないからです。
もう一度言います。このことはすべて、聖礼典を私たちの中に有効にしてくださるのはキリスト・イエスのであられると理解する真の信仰から来るということです。それゆえに、誰でも私たちを中傷し、私たちが聖礼典を裸で剥き出しのしるしにしか過ぎないと断言し、信じていると言う者は、私たちを侮辱しており、明白な事実に反する言い方をする人々です。
しかし、私たちは以下のことを自由率直に告白します。それは、永遠の本質であられるキリスト・イエスと聖礼典の印が表わしている二品との間の区別はするということです。それゆえ、私たちは二品が意味している事柄の代わりに、二品そのものを礼拝したり、それらを軽視したり、無益で空しいものと解釈したりしません。かえって私たちは聖礼典に参加する前に、勤勉に自らを吟味し、あらゆる敬意をもってそれらを用います。
なぜなら、私たちは使徒の口をとおして「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯から飲んだりする者は」キリスト・イエスの「身体と血に対して罪を犯すことにな」ると確信しているからです。
第22章 聖礼典の正しい執行について
聖礼典の執行に際して二つのことが必要であると私たちは判断します。第一は、それは合法的な教師によって執行されなければならないということです。彼等は神が御言葉を説教するために任命され、彼等の口に勧めの説教を入れられ、教会によって合法的に選ばれた人々であると宣言します。
第二は、聖礼典は要素においても方法においても、神が指定されたとおりに執行されなければならないということです。そうでなければキリスト・イエスの正しい礼典ではなくなると私たちは主張します。ローマ・カトリック教会の教えを捨て、その礼典から身を引く理由は下記のとおりです。第一に、その教師はキリスト・イエスの真の教師ではないからです。一層ひどいことに、彼等は聖霊が会衆に説教することお許しになっていない婦人たちに洗礼を許しています。第二に、彼等はキリストが初めてなさった純粋な礼典の執行には存在していなかった事柄を加えて両礼典を汚し不純なものにしてているからです。
洗礼において油、塩、唾といった類のものは人間が考え出したものに過ぎません。パンを礼拝し、あるいは崇拝し、街路や町中を行進して持ち運び、あるいは特別な箱に入れて保存することはキリストの礼典に相応しい用い方ではなく、反って濫用です。キリスト・イエスは、「取って食べなさい」、 また「私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。これらの御言葉とご命令によって主はご自分の聖なる体と血の礼典であるべくパンとぶどう酒を聖別されました。
それゆえに、一つは食べるべきものとして、他はすべての者が飲むべきものとされたのであって、ローマ教徒がしているようにそれらを神として礼拝し、尊崇すべきものとされたのではありません。その上、彼等は、その礼典の一部、すなわち祝福の杯を会衆から取り上げて冒涜してきました。更に、両礼典が正しく用いられるためには、これらが制定された目的と理由が教師は勿論のこと信徒の側にもよく理解されていなければなりません。と言うのは、もしも礼典を受ける者に見解の変化が起れば、正しく用いられなくなるからです。それは旧約時代の犠牲の拒否に見られるとおり明らかです。
同様に、もしも教師が神が忌み嫌われる誤った教理を教えるならば、たとえ礼典が神御自身の祭儀であるとしても、それらは正しく用いられてはいないのです。悪人はそれらを神がお命じになったのとは別の目的のために用いてきたからです。私たちは、ローマ教会では礼典はこのようになされてきたし、またそこではキリスト・イエスのすべての行為が形式、目的、そして意味において汚されていると主張します。
キリスト・イエスがなされ、またなされるように命じられたことは、福音書と聖パウロから明らかです。すなわち司祭が祭壇ですることを私たちは下稽古する必要はありません。そのために用いられるべきキリストの制定の目的と理由、また何のためにそれが用いられるべきかについては、次の御言葉に明らかに示されています。
すなわち「私の記念としてこのように行いなさい」、 また「このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」、すなわち -称揚し、説教し、賛美し、褒め称えるのです。 しかし司祭がどのような目的とどのような意味でミサを唱えるかは、ミサの言葉、そして彼等の博士たちとその教えをして言わしめよ。彼等はキリストと主の教会の間の仲保者として、父なる神に死者と生者の罪のための和解の犠牲を捧げなければなりません。
この教えは、キリスト・イエスに対する冒涜であり、聖めらなれねばならないすべての者を聖めるために、十字架上でただ一度だけ捧げられた主の唯一無比の犠牲の十分性を奪うことになります。それゆえ私たちはそれを憎み、否認します。
第23章 聖礼典は誰に施すべきか
私たちは、洗礼は成人して分別の年齢に達した者に施すと同じように、信者の子供たちにも施すものであると告白し、認めます。それで私たちは、子供たちのものである洗礼を、彼等が信仰と理解力を持つ前に施すことを拒否するアナバプテストの誤謬を断罪します。
しかし私たちは主の晩餐は、信仰の家の者で、自分の信仰と隣人に対する義務の両方において自問し、吟味することができる者に限られると主張します。信仰がなく、また兄弟たちと不和分裂のままでその聖なる食卓にあずかって飲み食いする者は食事をするに相応しくありません。それゆえ私たちの教会の教師は、主イエスの食卓につくのを許されるのは者たちの知識と生活態度について公けに、そして個々に審査をします。
第24章 行政官について
私たちは、帝国、王国、領邦、都市は神によって指定され、定められたと告白し認めます。すなわち、それらの中の権能と権威は、帝国の皇帝のものであろうと、王国の王のものであろうと、領邦の領主や諸侯のものであろうと、その他都市の行政官のものであろうと、神ご自身の栄光が現れるため、また人類の益と福祉のために、神の聖なる御定めによって定められたものであります。
それゆえに私たちは、謀反を起こし、正当に立てられた政治的権能の転覆を企てる者は誰でも、人類に対する敵であるのみならず、神が明白に表わしておられるみ旨に対する悪しき反逆であると考えます。更に、私たちは、権威者として立てられている人々は、愛され、 尊敬され、畏れられ、そして最高の敬意を受けるべきであると告白し認めます。なぜなら、彼等は神の代理人であり、彼等の会議には神御自身が座して裁きをなさるからです。
彼等自身は裁判官であり諸侯です。神は彼等に、善人を誉め、擁護し、すべて明白な悪人には復讐し、罰するために剣を与えておられます。更に、私たちは宗教の擁護と純化は、主に、また最も重要なこととして、王、諸侯、統治者、為政者に属する義務であると主張します。それゆえに、彼等は政治のために任命されているだけでなく、真の宗教を保持し、偶像礼拝と迷信はどんなものであれ、すべて禁止するために立てられています。ちょうど、ダビデ、ヨシャパテ、ヒゼキア、ヨシアその他の者たちが、これらのことのために示した熱心を高く賞賛されているとおりです。
それゆえ、私たちは下記のように告白し誓います。自らの責務の限界内で行っている限り、上に立つ権能に手向かう者たちは、神の定めに反抗しているのであり、罪なしとされません。更に、諸侯と統治者が注意深く自らの職務を果たしている限り、彼等を助け、助言を与え、あるいは激励することを拒否する者は誰であれ、ご自分の補佐役をとおしてそうすることを熱望しておられる神に対してそれらを拒否していると私たちは断言します。
第25章 教会に無代価で与えられている賜物
神の御言葉が確かに説教され、聖礼典が正しく執行され、神の御言葉に従って戒規が行われていることは、真の教会の確かな、また誤りのない印ではありますが、私たちはこの群れの中の個々の人々がキリスト・イエスが選ばれた一員であるとは申しません。私たちは、多くの雑草と毒麦が小麦の間に蒔かれ、その直中で豊かに成長していることを、また遺棄された者が選民の群れの中に見出され、彼等と共に御言葉と聖礼典の益に外的にあずかっているであろうことと認め、告白します。
しかし彼等は心からではなく、ただ一時的に口先だけで神を告白しているのですから、途中で落伍し、終わりまで続きません。それゆえ、彼等はキリストの死、復活、昇天の実りを共有することはありません。しかし真心を込めて誠実に信じ、口で主イエスを大胆に告白するものは確実に主の賜物を受けます。先ずこの世で、彼等は罪の赦しを受けます。赦しはただキリストの血にある信仰によるのみです。なぜなら罪は私たちの死ぬべき体の中に残り、留まり続けますが、私たちに転嫁されず、かえって赦され、キリストの義で覆われるのです。
第二に、全般的な審判において、すべての男女に肉の復活が与えられます。海はその死者を引き渡し、地はその中に埋葬されている者たちを渡します。然り、永遠者であられる私たちの神は、御手を塵の上に広げられます。すると死者は、すべての人が今身につけているのと全く同じ肉の本質をもって、自分の行いに応じて、栄光かあるいは裁きを受けるために、朽ちない者に甦ります。
今、虚栄、残虐、醜悪、迷信、あるいは偶像崇拝を喜んでいる者は、消えることのない火で苦しめられ、今あらゆる忌むべきことをとおして悪霊に仕えている者は、その中で、体と魂の両方で永遠に苦しめられます。しかし終わりまで善い行いに励みつづけ、大胆に主イエスを告白している者は、永遠の命をもってキリスト・イエスと共に永遠に治めるために栄光と誉れと不死とを受けると私たちは堅く信じています。
そして主が裁きのために再び現れ、御国を父なる神に帰されるとき、すべて選ばれた者はキリストの栄光化された御体に似せられます。そのとき父はすべてにおいてすべてとなられ、またそうあり続けられます。神こそは永遠に褒め称えられるべきです。父と子と聖霊に、すべての誉れと栄光が、今も後もとこしえにありますように。アーメン。
立ちたまえ。おお主よ。しかして汝の敵に恥じを被らせたまえ。神聖なる御名を憎む者を汝の前より逃亡させたまえ。僕たちには汝の御言葉を大胆に語る力を与えたまえ。かくしてすべての国民を汝の真の知識に至らしめたまえ。アーメン。
これらの文書と条項は、神の年1560年8月17日、エディンバラで、議会の前で朗読され、この王国の全議会によって批准された。
泥谷逸郎訳(97・11・4
スコットランド信条について
(島啓二著「ノックスとスコットランド宗教改革」 第16章によりながら)
解説:泥谷逸郎牧師
1997年11月5日
四国中会教師研修会
新居浜のホテルにて
スコットランド信条は1560年8月17日に「一字の変更もなしに議会を通過した」。勿論、それまでには訂正、削除などの作業はなされていたという。当時、スコットランド議会は一院制であり、上級聖職議員、貴族議員、下院議員の三つの身分によって構成されており、これらが一堂に会して議決するという方法をとっていた。この三身分をESTATESという。ノックスによると、最初、議会の法案作成委員会で、次いで、三身分全体の議員に信条の草案が提示されたが、全く反対はなかった(飯島 p.294)。「表決の日の17日には、もう一度、『信条』が各章ごとに朗読され、採決がなされた」が、3名の貴族が反対しただけであった。聖職議員は全く発言しなかった。(イングランド大使ランドルフの言葉は省略)
信条は作成命令が出されてから、4日以内に提出された。これはそれまでに準備を全くしていなくて、突然4日以内に書き上げたというのではなく、それまでにかなりの準備がなされていたことは当然である。しかし作成に取りかかってからは大急ぎで作業を進めた。信条の作成は6名のジョンに委任されたとノックスは言うが、実際には一番最初の原案作成者はノックスであったであろう(ヘンダーソン "The Birning Bush"による) と思われる。ランドルフによると、原案の検討を委ねられたメイトランドとウィンラム(信条作成の一人)は24章の行政官に関する章は削除を求めたが、議会に提出亭主されたときには削除されず、原案は残された。この章は宗教改革者たちと政治権力者たちの妥協の産物であろうと飯島は推測している。
信条は25章から成っている。この信条は、勿論スコットランド宗教改革者たち独自の特色を持っているが、カルヴァンの「キリスト教綱要」、「第1スイス信条」(1536)、「フランス信条」(1559)、ジュネーブのイングランド人教会信条、ヤン・ラスキなどの影響も見られると言われる。その特徴点を挙げるならば、「学問的方法や論理的正確さが欠如しており、繰り返し、分かり難さ、曖昧な表現」などが見られる。フランス信条やウェストミンスター信条と比較してみるとき、どうしても体系的にも論旨の点でもまとまっているとは言えない。カルヴァン主義の影響は明らかであるが、全体として穏健で、17世紀のカルヴァン主義から言えば、不徹底であるとの批判を免れない。 またこの時代の課題であり、巨大な敵であったローマ・カトリック主義を意識して、反論を試みている。
まず序文に注目しよう。ここで特筆すべきことは、この信条にも誤りがあるかもしれないという立場を取っている点である。これはローマ教会とは特別に区別されなければならない特徴である。なぜなら、当時のローマ教会は教会の教えには誤りはない、という立場であったからである。スコットランド信条は言う。もしも、この信条の中に神の御言葉に反する個所や文章があることに気づいたなら、それを文字に書いて知らせて欲しいと言っている。指摘される誤りが聖書から証明されるならば、聖書から満足すべき解答をするか、あるいは訂正することにやぶさかではない、とさえ断言している。これは宗教改革者たちの共通した、また基本的な認識であった。信条は決して聖書を超えるものではない。聖書こそが最高の権威であるから、聖書に反することが告白されているならば、聖書によって訂正されなければならない、と言う。この信条は1560年の時点では全議会によって批准されたが、カトリック信者の女王メアリはこの信条を承認しなかったので、1567年にあらためて議会によって批准された。上に述べたような欠陥を含む信条であったので、これよりも更に優れた信条が作られるときには、それに場所を譲り渡す運命にあった。ウェストミンスター信条がスコットランドの特命委員たちのリードのもとに作成され、議会と教会総会議で承認されると、スコットランド信条は次第にウェストミンスター信条に席を譲り、スコットランドの教会の公的な信仰告白としての地位は失われていった。上記のような弱点を持っているとは言え、そこに述べられている教理は聖書からの教えであるので、今日までしばしば引用されて用いられ、その生命と役割を失ってはいない。
スコットランド信条の本文は「神について」から始まる。フランス信条、キリスト教綱要と出だしは同じである。神の本質については、唯一性と属性と三位一体について簡単に述べ、み業については創造と摂理を簡潔に告白している。そしてすべてものは「神の栄光をあらわす目的に添って」摂理されていると述べている。これはカルヴァン主義の顕著な証しである。
第2章は、フランス信条にある啓示論、聖書論を期待したいが、それらは見られず、啓示論は第4章まで、聖書論は第19章まで待たなければならない。この章では普遍的な創造論の言及は第1章で簡単に済ませ、ここでは人間の創造のみに焦点が当てられる。
第3章では、原罪が扱われる。原罪という罪過によって、人の中にあった神の像は全く損なわれ、自然の関係によって生まれる子孫は、罪の奴隷になってしまったことが述べられる。聖霊の力によって再生の命を受けない者たちは永遠の死と滅びに至るが、再生を受けた神の選びの民は聖霊の力によって御言葉によって啓示された神の約束を信じる信仰が与えられ、主イエスにある数々の恵みにあずかり、主を理解するのであると告白する。ここで「御言葉に啓示されている神の約束を信じる信仰」による救いが言及されていることに注目したい。これは宗教改革者たちに共通していた認識である。
第4章は、約束の啓示とその啓示の発展性が扱われる。
第5章では、第4章と特別、明白な論理的継承は乏しいままで教会論の中の「存続、成長、保持」が告白されている。アダム以後の旧約の時代と主イエスが来られて後の新約時代の教会が連続した存在であることを前提にしているが、この章では主として旧約時代の教会について述べている。
第6章は、「キリスト・イエスの受肉について」告白されている。受肉のキリストは二性一位格のお方であることを告白した後、古代教会史の中に現れた異端を断罪する。
第7章は「何故、仲保者は真の神と真の人でなければならなかったのか」という表題が付けられているので、ハイデルベルク信仰問答書のようにその理由の説明がなされていることを期待したいところだが、この章は主イエスの両性の一致は「神の永遠不変のみ旨から出ている」という説明で終わらせている。問いに対する答えとしては不十分であるが、この信条の作者たちは第8章で詳しく説明しようとしたのであろう。
第8章は「選び」である。私たちの選びは「御子キリスト・イエスにある選び」であることが明白に述べられている。そこで「メシアは真の神であり、真の人でなければなりませんでした。なぜなら、メシアは私たちの罪過の罰を受け、御自身を私たちに代わって父の裁きの前に差し出し、私たちの罪過と不服従のために苦しみ、死を通して死の作者であるものに打ち勝つことができなければならなかったからです。しかし、神性だけでは死を苦しむことは出来ず、人性では死に打ち勝つことが出来ないので、メシアは一つの位格に両性を共に結合しておられたのです」
第9章では、キリストの代償的死と苦しみ、そして埋葬が告白され、苦難と悲惨の直中にあっても主イエスは「御父の愛する独り子」であられたことを告白している。
第10章は、死は命の創造者を永遠に死に留めて置くことはできず、死の支配者であるサタンを滅ぼして復活された。そして主イエスの民に命をもたらしてくださったと告白する。この復活には天使たち、使徒たちをはじめ、多くの証人がいると証しされている。
第11章では、主イエスの昇天と神の右の座に着かれ、執り成しをしておられること、そして終わりの日に最後の審判者として再びこの世に来られ、信じる者は永遠の祝福へ、しかしそうでない者は永遠の裁きに遭うことが告白されている。
第12章は「聖霊への信仰」告白である。聖霊論がここで扱われる。聖霊は父と御子と同等の神であられることが告白され、聖霊の恵みのみ業が父のみ業と御子のみ業と区別されて告白されている。
神論から始まって、主イエスの受肉、苦難、復活、昇天、神の右の座への着座、最後の審判、聖霊への信仰、公同教会、体の甦り、永遠の命という筋書きは使徒信条の構造によっていることが明らかである。なお、教会論と終末論の一部 (魂の不死)はもっと詳しく、のちに第16章と第17章で告白されるけれども。こういうわけで、第12章までが一応この信条の前半部分ということができよう。一応というのは、前半部分を教理の部とすれば、後半は実践の部とすることができるが、後半部分になお教理の部の一部が扱われ、明瞭に二区分することができないからである。
第13章は、従って実践としての善行論であり、「善行の原因」が告白される。善行の原因を人間の自由意志にあることを拒否し、ただ主イエスの御霊にあることが強調されている。
第14章は、「神の御前に善とみなされる行いは何か」と問い、二枚の石の板に記された十戒を行うことにあると答える。
第15章では、「律法の完全と人間の不完全」が告白される。「神の律法は、最も正しく、最も公平で、最も聖く、最も完全で」あるが、人間は全く不完全であるから律法の要求を満たすことはできない。それゆえ、イエス・キリストをしっかり把握して離れず、彼の義と贖いの内に留まらなければならないと言う。この章で、信仰義認の教理が表明されているが、信仰によって義とされるという表現は最後の第25章まで待たなければならない。そこに「赦しはただキリストの血にある信仰によるのみです。なぜなら罪は私たちの死ぬべき体の中に残り、留まり続けますが、私たちに転嫁されず、かえって赦され、キリストの義で覆われるのです」と告白されている。
第16章、第17章、第18章は、特に厳しいカトリック教会批判がなされている3章である。まず、第16章は、「教会について」告白され、教会は神が選ばれた人々の集団であり、主イエス・キリストのみを頭とする公同、普遍の群れであること、この教会の会員に信者の子供も含まれること、そしてこの教会は神のみに知られているが、人間には見えない教会であることが告白されている。
第17章は、「魂の不死について」告白されている章である。まずこの世を去った選びの民は、労苦を解かれて主のみ許に安息を得ていると告白される。信者の魂も不信者の魂も眠っているのではなく、消滅したのでもないと告白される。ここに人間の魂の眠りの思想(サイコパニキア)の誤謬と魂の消滅思想の誤りを指摘している。この章にこの世の教会を「戦闘の教会」という表現がなされている。
第18章は、「真の教会が偽りの教会から区別されるべきしるしと教理の裁判人は誰かということについて」扱っている。この章は、カトリック教会を「害毒を流す会堂」、「汚れた会堂」、「恐るべき娼婦」、「偽りの教会」などと呼んで激しく攻撃する。そして真の教会のしるしとして第1に神の御言葉の説教をあげ、第2に主イエス・キリストの聖礼典の正しい執行をあげ、第3に正しい戒規の執行をあげる。そしてこの御言葉には、「人が救われるために信じなければならないすべてのことが、十分に言い尽くされている」と堅く信じるという告白がなされている。この三点の主張は第25章でも繰り返されている。カトリック教会に対し、真の教会はこのようなものであることを余程、強調しておきたかったのであろう。
これら真の教会の三つのしるしの主張は、カルヴァン主義教会の共通の認識であった。このことによっても、この信条が改革派系の宗教改革の路線上にあることは明白である。そして聖書解釈の真の解釈者は、「個人や公人、あるいは、ある教会によってなされるのではなく、神の聖霊による」ことが力説されている。こうして第18章は、第19章の、「聖書の権威について」の告白に繋がっていくのである。
第19章は、「聖書の権威について」簡潔に告白し、聖書の権威は人間あるいは天使あるいは教会から出るのではなく、ただ「神から出る」と強調する。
第20章では、「総会議、その権威、召集の理由」について告白されている。総会議は「神の明白な御言葉に従って決定し命令する限り」は尊ぶべきであると言う。会議の権威は鍵にあるのではなく「神のかかれたお言葉の権威」によっているのである。「総会議が開催される理由は、神が作っておられない律法を勝手に作って、恒久の律法にするためではなく、私たちの信仰のために新しい信仰箇条を作るためでもなく、神の御言葉に権威を与えるためでもない。」 その第一の理由は、異端を論駁し、後の代の人々に対して信仰の公の告白をすることにある。第二の理由は、教会内に健全な政治が行われ、秩序が保たれるためであると、この信条は教えている。第21章から第23章は聖礼典論が取り上げられている。これらの章はカトリック教会の礼典を激しく攻撃している。
第21章では、二つの聖礼典、すなわち洗礼と聖餐があるのみであると告白する。そしてカトリック教会の化体説を退けると同じに、ツヴィングリの聖礼典を「裸でむき出しのしるし」に過ぎないとする説も断罪している。化体説は退けるが、聖礼典が正しく執行されるときには、聖霊による神秘的なみ業によってキリストに結び合わされ、キリストの体と血にあずかることによって主は私たちの魂の栄養となり、糧となってくださると告白されている。洗礼の礼典については、「洗礼によって私たちはキリストの義にあずからせていただくために主に接ぎ木され、それによって私たちの罪は覆われ、取り除かれた」と告白する。二つの聖礼典のことに一応は言及されているが、主として聖餐論が扱われ、洗礼についてはわずかしか触れられていない。これはカトリック教会の洗礼論よりは、聖餐論に対してより大きな反論を必要としたからであろう。
第22章は、「聖礼典の正しい執行について」告白されている。聖礼典は合法的に立てられた教師によって執行されなければならないと主張する。カトリック教会の教師はキリストの真の教師ではないと断言される。また聖霊が婦人に説教することさえ許しておられないのに、カトリック教会は婦人に洗礼を授けることを許している矛盾と突いている。さらにカトリック教会を赦す事が出来ないのは、彼等は主イエスが初めに礼典を執行なさったときに、主がなさらなかったことに新しいことを勝手に加えて礼典を汚していると非難している。勝手に付加された事柄が幾つか指摘されている。そしてミサ否定がなされる。
第23章では「聖礼典は誰に施すべきか」について告白されている。洗礼は分別年齢に達した成人と信者の子たちにも施されるべきであると主張して、幼児洗礼を否定するアナバプテストの誤謬を断罪する。但し、主の晩餐は自己吟味できる年齢以上の者でなければならない。従って幼児陪餐は不信者の陪餐と同じように否定される。牧師に、聖礼典にあずかりたい者の知識と生活態度を審査させるとしている点は注目に値する。長老主義政治では、この審査権能は長老会に属するのである。この審査は、勿論のこと第一コリント11章28節でパウロが言っている「自分をよく確かめたうえで」飲み食いすべきであると言う勧めからきていることは明らかである。
第24章は、「行政官について」の告白である。宗教改革期の多くの信条に見られるとおり、この信条でも市民的政治について、為政者について告白がなされている。宗教改革期は、宗教と政治が明瞭に区別されていなかった時代であったからこそ、この世の政治とそれを司る人々について、教会のために御言葉から明瞭にしておく必要があった。
この信条によると、皇帝、国王、領主、諸侯、また諸都市の行政官の権威は、「神御自身の栄光が現れるため、また人類の益と福祉のために、神の聖なる御定めによって定められたもの」である。すなわち、彼等の権威は神に由来しているというのである。従って、彼等が委ねられた限度内でその権能を行使する限り、服従すべきであること、もしこれに反抗するならば、それは神に反抗することであると言明する。いわば行政官は神の代理人なのである。彼等の義務は宗教の擁護と純化である。こうしてこの章は、信仰者は上に立つ権威に服従すべきことと、この世の行政官の宗教保護の義務を強調している。
この信条は抵抗論に言及しているであろうか。はっきりとした文章としては見当たらないが、行政官が「その職務の限界を超えない限り」という条件の言葉の裏には、行政官が自らの権能の限度をわきまえないでそれを超えるとき、抵抗もあり得ることを示唆していると思われる。ノックスのメアリ女王との激しい対立と激烈な宗教改革運動は、上記の意味での抵抗権を行使した実例であろう。
第25章は、終わりの日に不信仰者と偽信仰者が受ける報いと誠実で真の信仰者がこの世と来世において受ける恵みの賜物が告白される。最後の審判の日には不信仰者も肉の復活が与えられ、その体をもって身も魂も、未来永劫、永遠に消えない火の中で苦しめられる。しかし、真の信仰者はキリストの復活体に似せられ、永遠の命をもってキリストと共に永遠に治める栄光と誉れと不死にあずかると告白して、三位一体の神に栄光あれ、アーメンという賛美をもってこの章を終わる。
最後に短い祈りが付け加えらて信仰告白は終わる。
隠された犯罪:ビル・ゲイツ、GAVI、WHOのために働いた専門家ワクチンウイルス学者によれば、もし世界がこの人たちのしたことを知ったら、彼らは通りで石を投げられるだろう。彼らの唯一の望みは、この犯罪から世界の目をそらすために何かが起こることだが、それは起こらないだろう。
彼は、コビッドワクチンを摂取した人々は免疫系が制御不能になり、6月末までに次の感染症を撃退できず、大きな損失が発生することを確認した。
彼はさらに、新型ウイルスがやってくるとき、そしてそれがやってくるとき、ワクチン接種者には免疫抵抗力はまったく残っていないが、ワクチン未接種者には免疫防御力が残っていると言う。
大量ワクチン接種によって作られたこの新型ウイルスは、SARS-COV-2とは全く違ったものになるだろうと彼は言う。
H5N1鳥インフルエンザは、ワクチン接種者の大量死が予測されることの隠蔽工作になるのだろうか?
彼は、政府と保健当局はイベルメクチンやその他の抗ウイルス剤を義務付けて、大量死者を減らすだろうと予測している。イベルメクチンやその他の抗ウイルス剤は、ワクチン接種者が発病する前に服用しなければならない。なぜなら、ワクチン接種者に発病の症状が出始めてからでは遅すぎるからだ、と彼は言う。予防接種を受けた人に症状が出始めたら、24時間以内にすぐに亡くなってしまうだろう、と彼は予測する。
これは隠すにはあまりに大きな犯罪であるため、真実は表面化するだろう、と彼は続ける。このような犯罪を犯した人々は、国民に嘘をついてきたし、国民の健康と安全に配慮してこなかったのだから、厳しく罰せられることになるだろうと述べている。
なぜCDCなどはワクチンについて嘘をつき続けるのか?もし世界中がこの人たちのしたことを知ったら、彼らは街頭で石を投げつけられるだろうからだ。彼らの唯一の望みは、この犯罪から世界の目をそらすために何かが起こることだが、それは起こらないだろう。世界は真実を知ることになる。
病院は崩壊し、世界中が混乱に陥るだろう。彼は 「そうなる 」と言っている。
このようなことが起こるか起こらないかにかかわらず、そして起こらないことを願おうとも、真実は、これは人類に対する大規模な実験的機能獲得であり、彼ら全員を裁き、厳罰に処さなければならないということだ。
DeepL.com(無料版)で翻訳しました。
「ギブソン、私は最近、キリスト者倫理を平和学で体系化するにはどうすればよいのかを考えているの?日本国憲法法体系をまとめるつもりなんだけど、日本国は信仰の多様な人たちの国家共同体としての国の基本法な訳だけど、その前に、キリスト者を自認している神の国共同体の基本法を体系的にまとめてみるという試みに挑戦してみようという考えなのよ。どう思う?」
ギブソンは、安音の突飛な発想には驚かない。彼は、安音を超える信仰の自由を謳歌している人だから。
「それはいいね。キリスト者倫理か?キリスト教会にその思想はあるのかい?」
「同志社大学の教授がキリスト教倫理という講義をしているんだけど、物足りなさすぎる。真理にずばり切り込んでいるとは思えないわ。」
ギブソンは、安音が求めている答えに近づけるよう、いろいろな助け船を出す視点を、いつも提供する。
「ウイキペディアでは、『キリスト教倫理は、キリスト教における倫理。キリスト教道徳とも言う。』との立ち位置だけど、僕たちのキリスト者倫理は、あくまで、エクレシアとして神から呼び出された救いを自認しているキリスト者としての倫理(仲間とどう折り合うか)の問題意識だから、ウイキペディアのキリスト教倫理とは、かなり開きがあるね。」
安音は、ギブソンに応答し、続けた。
「そう。そうなのよ。私たちのキリスト者倫理は、エクレシアとして神から呼び出されて救いを受け、聖霊をいただいている者として、その神の国の使命をいただいていると自覚しているキリスト者の間だけの倫理模範って、どうあるべき、どう考えるべきという問いへの答えなのよ。そして、このキリスト者倫理とは、神を愛し、隣人を愛し、キリスト者としては、互いに重荷を負い合い、互いに支え合い、自己、他者、共同体として、互いに愛し合いなさいという神がお望みの事の実現における共同体規範。この壮大な霊的な働きは、果てしなく広がるキリストの身体につながる枝としての救済の事業計画が、使徒の働きによって、歴史に刻まれているわ。キリスト者たちが起こした社会事業によって、キリストへの信頼が増し加わっているのだから。」
#アンネの法則の山下安音です。私のライフワークは、平和学研究とピースメディア。VISGOのプロデューサーに就任により、完全成果報酬型の教育コンテンツと電子出版に、専念することになりました。udmyとVISGOへ動画教育コンテンで、世界を変える。SDGs3,4の実現に向けて一歩一歩