曖昧な社会というものはよ

 13日の白饅頭日誌を読んで、思うところがあったので書いておこうと思う。

 本件にかぎらずだが、「悪気も悪意もないが『態度の適切さ』や『情報の正確さ』において完全に的確であるとはいえない表現」程度のものを、あまりにも強いトーンで懲らしめる風潮が強まりすぎている。
(中略)
 どうしてこうも「一遍も曇りなき善なる常人か、さもなければ糾弾対象になる悪人」という両極端な世界観が進行しているのだろうか。

白饅頭日誌:6月13日「両極端な世界」|https://note.com/terrakei07/n/n705b9c3b0fe5

 まったくである。
 「全か無か」といった価値観、AでなければBであるといった価値観が急速に浸透しつつある、いや、浸透してしまったと思う。
 このことについて、実体験も交えながら、記録しておきたいと思う。

総論賛成各論反対

 バリバリの2ちゃんねらーだったころだから、2000年代のことだ。私はある未解決事件を考察するスレッドに入り浸っていた。その中で、X氏という人がいて、推理を披露していた。
 仮に、この推理が10項目からなっていたとしよう。で、私も10項目中9項目まで同意見であるが、7番目の項目だけ違うと思う、とレスをつけたときのことである。
 X氏は、それならば持論を出せ、と言い出した。私は概ね同意見だが、7番についてはかくかくしかじかだと思う、と答えた。そうすると、X氏は「いや、そうではなく、10項目すべてについて持論を書け、10項目すべてが独自の視点である必要がある」と言い出したのだ。
 そう、X氏は「総論賛成各論反対」が通じない相手だった。
 その当時は、「おかしな人もいるなあ」と思っていたのだが、それから十数年経ってみると、ツイッターランドを中心として、「おかしな人」だらけになっている。

喧嘩両成敗

 その昔、「喧嘩両成敗」という言葉があった。ケンカをしたら、どっちも悪いとする考え方で、私(1977年生まれ)が子どものころは、まだ祖父母の世代は現役で「喧嘩両成敗」という言葉を使っていた。どちらか一方だけが悪いなどということはないのだから、お互いに謝って、お互いに許し合いなさい、ということだ。

 これが、ツイッターランドなどでは全く理解されなくなっている。レスバトルをしているのを見て、「どっちもどっちだよね」という意見を持とうものなら、どちらの陣営からも「相手の味方か」と言われてしまう。A悪いと思うが、Bにも悪いところがある、という感覚を全然理解してもらえないのだ。

 もしかすると、この辺の感覚は欧米の「ディベート文化」の輸入、アメリカの訴訟社会では謝ったら負けという“都市伝説”の輸入から来ているのかもしれない。ディベート文化からは議論には勝ち負けがある(勝ち負けしかない)ということを学んだのではないか、訴訟文化からは文字通り謝ったら負けということを学んだのではないか、ということである。
※謝ったら負けというのを“都市伝説”としたのは、アメリカのドラマを見る限り、謝るべきときは結構謝っているからである。絶対言ってはいけないとされる“I'm sorry.”もよく出てくるし(もっとも「残念です」という意味もあるが)、apologizeという単語も頻出だ。

 また、昔はよく「いじめた方が悪いが、いじめられた方も悪い」という言い方をされることがあった。例えばいじめられてそれを「嫌だ」と言えないとか、親や先生に訴え出たりしないとか、抵抗したりしないとか、そういうことだったのだろうが、きょうびこのようなことを人前で言おうものなら間髪を容れず燃やされることは必定だろう。ツイッターランドでは、「いじめた方が悪いが」は読んでもらえず、「いじめられた方悪い」は「いじめられた方悪い」と誤読される。読める文章の上限が140字である上に、正確に読めない。これを地獄と言わずして何と言おうか。

 私は先ほど「誤読」と書いたが、ひょっとすると「」「にも」の意味が取れないのではないか、という気もする。小さいころから「全か無か」の考えに慣れ過ぎて、「も」「にも」の思考ができないのではないか。

自衛と責任のはざま

 自分に責任はない。自分に悪いところはない。であれば清く正しく、平穏に過ごせるかというと、この世界は必ずしもそうはできていない。

 今の若い人たちはどうか知らないが、私たちおっさん世代が子どものころは、危ないところに近づいてはいけない、遠くまで行ってはいけない、どこそこに行くときは大人と一緒に行きなさい、そういうことを言われたものだし、その“禁”を破れば当然のように叱られた。

 遠くまで行くことやどこそこに行くこと自体は「悪」ではない。「悪」ではないが、何かしら危ない目に遭いやすい場所からは距離を置き、事件や事故に巻き込まれないようにすることは昔は当たり前だった。

 ところが、最近は自分が「悪」でないのだからよい、という考えが浸透しているように感じることがある。

 仮に、このような事例を考えてみよう。ある職業に就きたい女性が、その業界の大先輩である男性と二人きりで食事をし、飲酒をした。その女性は泥酔し、男性に介抱されたのち性的暴行を受けた、というようなケースである。繰り返すがあくまで仮定の話である。

 このような場合、われわれおっさん世代の人間は、悪いのは性的暴行をした男性であるが、二人きりで食事・飲酒をし、泥酔するというような不用意な行動を取らなければ被害に遭うこともなかったのではないか、と考える。
 危ないところに近づいてはいけない、大人と一緒に行きなさいということである。しかし、ツイッターランドを中心として、今の人はこのようには考えない。悪いのは男性なのだから、被害者を責めるようなことはいけないというのである。危険を回避しなかったことについては不問に付せ、というのである。

 これが例えば、車を運転しているときに、前方を走っているトラックの積み荷が今にも崩れそうで、トラック自体傾いているようなとき、どうするだろうか。車間距離を空けるなどして、積み荷の崩落やトラックの横転が起きたときに、危険を回避できる状況を作るはずである。上記の例に照らせば、悪いのはトラックの運転手なのだから、こちらが危険を回避するための行動を取る必要はないということになる。その結果、後方を走るこちらが死亡したり負傷したりしてもである。善悪は命よりも重い、そんな馬鹿な話はあるまい。

 こういうとき、ツイッターランドで「女性にも危険を回避する、自衛の手段があったのでは」と言おうものなら、まるで暴行をはたらいた男性には非がないとでも言っているかのように喧伝され、瞬く間に火だるまである。「悪いのは暴行をした男性である。それはそれとして」という議論はもはや成り立たない。「それはそれとして」を受け入れてしまうと、男性が100%の悪ではなくなってしまうと思っているからだ。被害者の無謬性に傷がついてしまうからだ。
※もちろん、全ての犯罪被害者に非があるという趣旨ではない。何の落ち度もないのに、例えばたまたまそこを通りかかっただけで殺傷されてしまったような人数多くいる。

この世界というものは

 しかしながら、この世界、人間社会というものは、善か悪か、全か無かで割り切れるように単純にはできていない。

 誰だって善をなしたこともあれば、何かしらの罪も抱えているものである。ある人から見れば悪人に見える人であっても、他の人から見れば善人である場合もある。

 絶対に、とは言わないが、ツイッターランドで誰かを糾弾している人も、過去に何かしらやらかして●●●●●いる。もし、自分が絶対の善であり、無謬であるという人がいたら、自らの個人情報を全て公開し、ツイッターランドの住人にその善悪の判断を任せてみればよい。

 大切なことは、過去のやらかし●●●●から何を学び、何を改めるかなのだ。人間はこれまでそうやって生きてきたし、これからも生きていく。過去のたった一つの過ちをもって、全てを失わせる昨今の風潮が異常なのである。

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