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15分間中国近現代史 国民革命

(たぶん?)日本一カンタンでわかりやすい中国近現代史
豊富な写真と平易な文章で流れがつかみやすい

これはAmazonのkindle本『2時間で読める中国近現代史』(歴史ニンシキガー速報発行)に収録されている国民革命編を抜粋したものです。

五四運動

1919年1月、パリのベルサイユ宮殿で第1次世界大戦の終了にともなう講和会議が始まった。中国民衆は会議に大きな期待を寄せた。戦勝国の一員である中国は敗戦国ドイツが山東に持っていた権益を回復し、日本の21か条要求も撤廃できるに違いないーー中国の知識人は誰もがみなそう信じていたのである。実際、国民の間にも将来を楽観する空気が満ちあふれていた。

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ベルサイユ条約調印式

ところがである。採択された決議はそうした中国民衆の期待を無残にも打ち砕くものであった。中国が要求していたドイツの山東権益は中国へは返還されず、そのまま日本へ譲渡することが決定されたのである。

この報を聞くや激昂した北京の大学生たちは5月4日、天安門に集結して抗議集会を開いた。参加したのは、北京大学以下、十余の大学、 専門学校の学生約3000人。かれらは、「条約調印拒否」「売国三官僚の罷免」を口々に叫びながら東交民巷の公使館区域へ向けてデモ行進を始めた。 だが、治外法権を盾に官憲から立ち入りを拒否されると、デモ隊は方向を転じて親日派官僚の曹汝霖邸に乱入した。曹汝霖は、21ヵ条交渉の責任者で、西原借款の窓口ともなった親日派の官僚である。曹汝霖は、危ういところで難を逃れたが、 デモ隊はたまたま居合わせた同じ売国官僚の駐日公使章宗祥を殴打、曹汝霖邸に火を放って気勢をあげた。この日、32名の学生が逮捕された。

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北京大学を出発する五四運動のデモ隊


翌日になると学生らは各学校で次々にストライキを打ち、逮捕学生の釈放を要求、さらに市内へ出て、日本商品ボイコットを呼びかけるなど 抗議行動はさらに活発化した。驚いた北京政府は7日、逮捕学生を釈放したが、運動はおさまる気配を見せず、8日、9日の国恥記念日(中国が、 日本の21ヵ条要求に屈した日)を契機にいっそう拡大する様相すら示した。追いつめられた政府は、再び弾圧の挙に出た。だが、 これが国民の怒りにいっそう火をつけることとなった。学生の大量逮捕に抗議して上海や天津をはじめとする全国主要都市で労働者や 商人が立ち上がったのである。窮地に立たされた政府はついに要求をのみ、8日には逮捕学生を釈放、10日には「売国三官僚」の罷免を発表した。 またパリ講和会議に出席していた中国代表は売国奴といわれるのをおそれ、条約の調印を拒否した。ここに五四運動は勝利のうちに終結したのである。


中国共産党の誕生

五四運動が起こった1919年と並んで1921年という年も、中国の歴史にとって忘れられない年となった。この年7月、 中国共産党第1次全国代表大会が上海のフランス租界で開かれたのである。出席したのは、コミンテルン代表マーリンはじめ張国燾、 李達、陳公博、董必武など全国各地から集まった初期の共産主義者たち13名。なかには湖南代表として参加した若き日の毛沢東の姿もあった。

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中国共産党第1次全国代表大会旧址

会議が始まって5日目。突然、見知らぬ男がドアを開け「失礼、家を間違えました」といって立ち去った。ただならぬ気配を察した マーリンはただちに散会を指示。その直後、フランス人警官の率いる租界警察が踏み込んだ時、現場は飲みかけの茶碗を残しすでにも抜けの殻となっていた。
間一髪で難を逃れた共産主義者たちはその後、会場を浙江嘉興へ移し、南湖に浮かぶ船上で議事を再開した。 この南湖会議では中国共産党の創設を正式に決議、陳独秀を初代総書記に選出した。さらにプロレタリア独裁の基本方針を採択し、 ただちに革命党として労働運動の組織化に乗り出すことを決定した。決議を受けて毛沢東と李立三らは湖南の安源炭坑へ、 また張国燾と鄧中夏らは京漢鉄道へと向かい、それぞれ労働組合づくりに着手することになった。

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中国共産党第1次全国代表大会が再開された嘉興の南湖

しかし労働運動工作がようやく軌道に乗り始めた翌年3月、マーリンは陳独秀ら党の指導部を杭州西湖に集め、中共党員が国民党に入って 活動するいわゆる「党内合作」を勧告した。これは先のコミンテルン第2回大会で決議された「統一戦線」路線を受けたものであったが、 労働者の絶対数が少なく党員も全国でせいぜい200名程度という現状を考えた場合、やむをえない措置といえた。

陳独秀ら指導部は当初、これに反対したが、翌年2月に起こった軍閥呉佩孚による京漢鉄道ストの弾圧(二・七惨案)をきっかけに、 労働運動だけで帝国主義や軍閥のむきだしの暴力と闘うことの困難さを悟り、やがて党内合作を受け入れた。

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第一次国共合作

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