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15分間中国近現代史 辛亥革命

(たぶん?)日本一カンタンでわかりやすい中国近現代史
豊富な写真と平易な文章で流れがつかみやすい

これはAmazonのkindle本『2時間で読める中国近現代史』(歴史ニンシキガー速報発行)に収録されている辛亥革命編を抜粋したものです。


革命派と立憲派

清朝末期の体制改革運動を俯瞰すると「立憲派」と「革命派」というふたつの大きな流れのあることがわかる。このうち立憲派とは清朝皇帝を戴く立憲君主制を主張するグループであり、その中心となったのは戊戌政変で海外に亡命した康有為や梁啓超らである。

彼らは民度の低い中国には共和制は適合せず、革命はかえって列強による中国分割を招くだけだと主張。保皇会という政治結社をつくり、当初は首都北京を中心に、戊戌政変の後は海外を拠点に立憲君主制の導入を目指して運動を展開した。

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光緒帝と並ぶ康有為(右)と梁啓超(左)

いっぽう革命派とは、いうまでもなく清朝を打倒した上で共和制を導入しようというグループであり、その中心となったのは広東出身の医師孫文である。ハワイで教育を受けた孫文は中国の近代化を旗印に1894年、ホノルルで革命結社・興中会を結成。清朝打倒と共和制国家建設をめざして広東省などの南部や海外を拠点に活動を展開した。

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孫文(左から二番目)

また孫文らのグループを革命派の主流とすればその傍流をなしたのが、留学生グループである。日清戦争後の東京には憂国の情に燃える多くの中国人留学生が学んでいたが、当初はその多くが立憲派に期待を寄せており、革命派はむしろ少数派であった。だが、義和団事件や拒俄運動(ロシアを満州から撤兵させようとした学生運動。しかし清朝政府によって逆に弾圧された)のさいに露呈された政治的無能と列強に対する清朝政府の卑屈な態度を目の当たりにした留学生たちはしだいに清朝を見限り、革命派へと接近していく。やがて急進化した一部の留学生たちは帰国し、各地に革命団体を組織し始めた。そのうち黄興、宋教仁らは湖北・湖南出身者を中心に華興会を、蔡元培、秋瑾らは浙江・江蘇出身者を中心に光復会を組織した。さらに湖北武昌にも科学補習所と呼ばれる革命結社がつくられた。

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秋瑾

だが、残念ながらこれら各地の革命団体はそれぞれバラバラに活動しており、横の連携はほとんどなかった。こうした状況を憂慮したのが、日本人志士宮崎滔天である。滔天は1905年7月、ヨーロッパ外遊から戻った孫文に黄興を引き合わせた上で大同団結の必要性を説いた。席上、すっかり意気投合した孫文と黄興は、興中会と華興会を母体に他の革命団体をもまじえた統一的な組織、中国同盟会をつくることに同意した。

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宮崎滔天

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黄興


その後、東京赤坂で挙行された中国同盟会創立大会では、孫文を総理に選出し、革命綱領として「韃虜駆除・中華回復・民国創立・地権平均」の四つを採択した。ここに中国史上初めて統一的な組織と近代的な革命理論を持つブルジョア革命政党が誕生したのである。

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孫文とその同志たち。滔天の実家前で

辛亥革命前夜の情勢

義和団事件によって西安に蒙塵していた西太后は1901年、改革を断行する新政の詔勅を発した。さしもの清朝も事ここにいたっては重い腰を上げざるをえなかったといえるだろう。だが、科挙の廃止、新式学校の設立、海外留学生の派遣、新式陸軍(新軍)の創設などからなるこの一連の改革は、わずか数年前に流血をもって自ら葬り去った「変法」をそっくりそのまま焼き直したものに過ぎなかった。しかも、新政のための財源を名目にこれまでの数倍にのぼる増税を行ったため、民衆の生活は以前にも増して苦しくなるばかりであった。それでも清朝の元での立憲君主制に希望を寄せる立憲派は、将来の立憲制実現に道を開くものとこれを歓迎した。その一方で、中国同盟会に拠る革命派はこれをたんなる弥縫策であり、政権の延命策であるとして非難し、また無視した。

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改革の先頭に立った粛親王


そうしたなか、1911年5月、立憲派が久しく待ち望んだ新内閣が発足した。だが、その顔ぶれはと見ると首相以下、ほとんどの閣僚が満州人貴族で固められていた。満州族による支配権を手放すまいとするこの清朝側の露骨な姿勢は立憲派の期待を完全に打ち砕いた。なかでも決定的だったのは、この「親貴内閣」が公布した「鉄道国有化令」である。国有化といえば聞こえはいいが、実際はその敷設権を担保に列強から借款を導入しようというのがその目的であった。

この売国政策に怒った四川、湖北、湖南、広東各省の人々は各地で猛烈な反対運動を展開した。なかでも四川では資本金の一部が税金として強制的に徴収されていたこともあって商店主や学生をも巻き込んだ広範な大衆運動へと発展した。やがて成都で清朝側官憲によるデモ隊に対する無差別発砲事件が起こるとそれをきっかけに運動は暴動へと発展。民衆の怒りの炎はまたたくまに四川全域へと燃え広がった。

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鉄道国有化に反対する請願運動

武昌蜂起と辛亥革命の成功

四川暴動に端を発した民衆の反清闘争はさらに湖北省の首都武漢へと飛び火した。1911年10月10日の夜、武漢三鎮のひとつ、武昌に司令部を置く清朝の新軍の一部が反乱を起こしたのである。蜂起を準備したのは同盟会とは別に独自の革命運動を進めていた文学社と共進会というふたつの革命結社。両団体はかねてから新軍の下士官、兵士たちのあいだに工作を続けており、蜂起前夜までには湖北新軍のおよそ三分の一、約5000人を革命派に取り込むことに成功していた。だが爆弾製作中の誤爆事故をきっかけに漢口のロシア租界にあったアジトが露見、計画も清朝側に察知されてしまった。これに対して官憲の捜査が自らの身に及ぶことを恐れた下士官らは指導部不在のまま急きょ計画を繰り上げて決起したのである。

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文学社の蒋翊武

最初の蜂起部隊が武器弾薬庫を襲撃すると各地で新軍兵士が呼応、わずか一昼夜のうちに武漢三鎮は革命派によって占領されてしまった。さらに完全な指導機関を持たない革命軍は立憲派の旅団長・黎元洪をむりやり担ぎ出し革命政権の代表にすえた。黎元洪は最初、拒んでいたがやがて形勢が革命派に有利と見るや自ら弁髪を切り落とし、正式に革命政権・湖北軍政府の都督に就任した。

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漢口租界を守るドイツ兵

武昌における革命成功の報を聞いた各省政府は立憲派の官僚や郷紳が中心になり清朝からの独立を宣言。まず湖南が、ついで陜西省、江西、雲南、さらに貴州がとなだれをうつように続々と各地に革命政府が樹立された。その年の12月、革命勃発の報を亡命先のアメリカで聞いた孫文はイギリスを経由して急きょ帰国。1月1日、臨時大総統に就任した孫文は、南京で中華民国臨時政府の成立を宣言した。

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日本で描かれた漢口の戦い

袁世凱の簒奪と辛亥革命の挫折

一方、事態の進展に驚いた清朝は当時、故郷に陰棲していた袁世凱を革命軍鎮圧のために呼び戻した。各地の新軍が続々と反旗をひるがえす中、清朝政府にとって最後の頼みの綱となったのは袁世凱だけだったからである。事実上、清朝政府の国軍であった北洋軍は満州人の指揮には服さず、ただ一人袁世凱のみが意のままに動かすことができたのだ。11月、かれは内閣総理大臣に任命され軍の全権を与えられた。

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南京に入城する革命軍

ちなみに袁世凱が中央政界に返り咲いたのは、列強、なかでもイギリスの強力な後押しがあったのもひとつの理由である。当初、革命の進展に「中立」の態度を表明していた列強だったが、革命政権、清朝政府いずれも自分たちの利益を代弁させるには力不足とみてとるやひそかに新しい支配秩序の確立を画策した。そんなかれらのお眼鏡にかなったのが袁世凱だったのである。

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袁世凱の簒奪

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