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15分間中国近現代史 満州事変と満州国

(たぶん?)日本一カンタンでわかりやすい中国近現代史
豊富な写真と平易な文章で流れがつかみやすい

これはAmazonのkindle本『2時間で読める中国近現代史』(歴史ニンシキガー速報発行)に収録されている満州国編を抜粋したものです。


満州事変の背景

「満蒙問題は、私は是は我が国の存亡に係る問題である、我が国民の生命線であると考えておる。国防上にもまた経済的にもさように考えておるのであります…」

1931年1月の衆議院本会議の席上、政友会議員松岡洋祐は、政府の外交政策を批判する中でこのように演説した。

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松岡洋祐

満蒙問題とは、日清・日露の両戦役を通して満州南部に確保した日本の権益が中国側によって脅かされているとするもので、なかでも問題視されたのは満鉄並行線であった。当時の満州の実質的な支配者は、張作霖の跡を継いだ息子の張学良だったが、彼は父を日本軍に殺された恨みもあり、当初から反日の立場をとっていた。その張学良が、それまで禁止されていた満鉄線と並行して走る新たな鉄道路線の建設を強行したのである。これによって、満鉄の取扱貨物量は激減。さらに世界恐慌による満州特産の大豆の暴落が加わり、満鉄の経営は大きな打撃を受けたのである。

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アジア号の食堂車

だが、それがなぜ日本の「生命線」につながるのか。そのあたりを理解するには、当時の日本に形成されていたふたつの大きな流れー対英米強調路線と対英米強硬路線ーについて知る必要がある。これまで、後発の資本主義国である日本は、その経済発展をもっぱら英米市場への依存という形で進めてきた。もともと資源が少なく、市場も狭隘な日本はある程度英米への依存も避けられないとするのが英米協調派の立場で、これに対し、強硬派は英米依存から脱却しなければならないとする立場をとった。そして、彼らはそのためにはアジアでの自給自足圏を確保しなければならないと主張したのである。

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幣原喜重郎外相

20年代は、幣原喜重郎外相に代表される英米協調派が大勢を占めていた。ところが、1929年に始まった世界大恐慌をきっかけに、両者の勢力バランスは逆転する。英米など「持てる国」が互いにブロック経済化を進め、その市場から日本が締め出されるようになると自由貿易を前提としてきたそれまでの英米協調路線が破綻をきたしたのである。

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大恐慌で食料配給を受ける人々

そこに松岡洋祐や陸軍などに代表される対英米強硬派が台頭してきた。彼ら強硬派は英米という市場が失われた今、急いで自前の市場を確保しなければ、日本はやがて経済的に立ち行かなくなると危機感をつのらせた。そして、その自前の市場と目されたのが、満蒙地域だったのである。

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満州

その満蒙地域の権益が今、張学良によって脅かされようとしている。しかも、国内は未曾有の不況の真っ只中だ。都市には失業者があふれ、「大学は出たけれど」などという言葉が流行していた時代である。また東北など地方の農村地帯では、貧しさのあまり娘を身売りに出す農家も少なくなかった。こうした中、松岡の生命線論は国民の間に絶大な拍手をもって迎えられたのである。かくして「満蒙の危機」は、ある種の流行語として、当時の日本社会のすみずみにまで広まっていったのである。

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娘身売りの相談所


一方、ちょうどそのころ陸軍内部では、満蒙問題解決のための具体的な策謀がひそかに練り上げられていた。その中心人物となったのが、作戦主任参謀の石原莞爾中佐である。石原は、熱心な日蓮宗徒で信仰にもとづく独自の文明史観を持っていた。それによると、近い将来、東洋文明の代表選手、日本と西洋文明の代表選手アメリカによる「世界最終戦争」が勃発する。そこで日本が勝利を得るためには、まず戦争に耐えられるだけの資源を持たねばならない。そして、そのためには、満蒙を日本の後背地とする必要があるというものであった。この考えに沿って、石原は、同僚の板垣征四郎とともに「満蒙領有計画」を立案したのである。

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石原莞爾

タイミングは申し分なかった。おりからの世界恐慌で、英米各国は極東の問題にまで口出しする余裕はなかったし、ソ連は、国家の生き残りをかけた五か年計画の真っ最中である。しかも、張学良と東北軍の主力は出払っており、目下満州はがら空きの状態だった。

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張学良

柳条湖事件ーー満州事変勃発

星明りの下で幾人かの影が動いた。何かを運び込んでいる様子だったが、周囲は暗く、人影の正体までは分からない。場所は奉天市北郊の柳条湖付近。一時間後、同じ場所に突然火の手が上がった。爆発はそれほど大きなものではなかったが、満鉄線をねらったことはあきらかであった。報告を受けた関東軍参謀板垣征四郎大佐は、これを中国軍の仕業とみなし、ただちに中国軍の本拠地がある北大営への攻撃を命令した。一方不意を突かれた東北軍は、張学良の不抵抗方針の徹底もあって、ほとんど抵抗らしい抵抗もみせず、翌日の昼には北大営と奉天城を明け渡した。1931年9月18日午後10時30分頃から翌日にかけて発生したこの事件は柳条湖事件と呼ばれ、その後の一連の行動とともに満州事変の始まりとされている。

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柳条湖

この満鉄線爆破だが、これは中国軍側の仕業ではなく日本側の自作自演であった。後日判明したところによれば、奉天に駐屯していた独立守備隊の河本末盛中尉ら7人の日本兵が自ら爆薬を運び、点火したものだという。

これを裏づける後日談もある。満州事変は、たしかに関東軍によって計画され、実行に移されたのは事実だが、日本陸軍の中央部は必ずしもこれに全面的に賛成していたわけではない。そのため関東軍の間に不穏な動きを察知した陸軍の上層部は、参謀本部第一部長建川美次を説得のため満州へ派遣した。ところが、その建川もまた同じ穴のむじなであった。奉天に到着した建川は、板垣らに「君らのことが半分ばれた。中央は中止せよといっている。自分の意見はうまくやるならやれ、だめならやめた方がよかろう」といって料亭で酒を飲んで寝てしまった。そこで板垣らが、急きょ予定を早め、その夜ただちに実行に移したというのである。

以下は有料コンテンツとなります。なおAmazonのkindle本『2時間で読める中国近現代史: 豊富な写真と平易な文章でわかりやすく 流れがつかみやすい』でもお読みになれます。→https://amzn.to/37gSGH9

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