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15分間中国近現代史 洋務運動

(たぶん?)日本一カンタンでわかりやすい中国近現代史
豊富な写真と平易な文章で流れがつかみやすい

これはAmazonのkindle本『2時間で読める中国近現代史: 豊富な写真と平易な文章でわかりやすく 流れがつかみやすい』(歴史ニンシキガー速報発行)に収録されている洋務運動編を抜粋したものです。


同治の中興

太平天国の乱が終息したあとはこれといった内憂外患もなく比較的泰平無事な時代が続いた。もちろん、それはやがて到来する嵐の前の一時的な静けさにすぎなかったが、清朝政府にとってはともあれ一息つけた時期であったことは間違いない。この1860年代から1880年代までの20年間を時の皇帝にちなんで「同治の中興」と呼んでいる。

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同治帝

清朝政府の一部はこの好機をとらえて改革を進めようとした。その代表的な人物が、太平天国鎮圧に功のあった曽国藩、李鴻章、左宗棠ら漢人官僚たちである。かれらはアロー戦争でまざまざとみせつけられた西洋の優れた軍事技術に着目し、積極的に西洋の文物をとりいれようとした。こうしてはじまったのがいわゆる洋務運動である。

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左宗棠


最初に1862年に曽国藩が安慶に軍械所(兵器工場)を設立したのを皮切りに李鴻章が上海と蘇州にそれぞれ製砲廠を設置、さらに64年には左宗棠が福州に造船所を開設した。その後、1870年代になると運輸・通信業、鉱山採掘業といった分野でも積極的な改革が推し進められた。もっともこれらはまだ軍需産業の枠内に限られた動きだったが、1880年代に入ると紡績、織布といった民需の分野においても同様の動きが少しずつ広がっていった。

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福州の造船所

上からの資本主義化によって富国強兵をはかるというのがかれら漢人官僚たちの考えであった。だが、この洋務運動は、富国と強兵をスローガンにかかげたものの実際は強兵ばかりに重点がおかれ、肝心の富国のほうはなおざりにされていた。その上、中華思想にこりかたまっていた洋務派官僚たちは中国伝統の制度(体)を唯一至上のものと考え、これに西洋の科学・技術(用)を末節的にとりいれればことたれりとし、近代的な資本主義国家に欠かせない政治機構や社会制度、民主主義思想などは一顧だにしようとしなかった。 こうした独善的でつけ焼き刃的な「中体西用」論は、当然のように限界につきあたる。そして、そうした限界の存在を最初に思い知られたのが1884年に勃発した清仏戦争であった。

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安慶の兵器工場

清仏戦争

列強の大清帝国に対する侵略の包囲網は、同治の中興の間にもじわじわとその輪を縮めていた。1868年にはロシアが中央アジアのブハラを併合、のちにヒバ、コーカンドの三国をあわせ、清朝領土から切り離した。また1874年にはイギリスがビルマへ進出、1879年には日本が琉球をその支配下に置いた。これらの地はいずれももとは中国の属領または朝貢国だったところである。だが、宗主国である清朝は妥協的な外交を繰り返し、列強のなすがまま、されるがままという状態だった。

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ロシアの砦となったアルバジン城

しかしながら、それがベトナムまでとなるとさすがに別であった。ベトナムは、ブハラやビルマと違い、より中国に近い昔からの朝貢国である。しかも中国とは雲南・広西両省と境を接しており、地政学的にも重要な地域であった。

そのベトナムにフランスが侵略の手を伸ばしてきたのは19世紀のはじめのことである。その後フランスはしだいに政治的な圧力を加え、1874年にはサイゴン条約を結び、ベトナムを事実上の保護国とした。しかし、ベトナムはその後も清朝への朝貢を続けたばかりか、太平天国軍の残党で劉永福ひきいる黒旗軍の援助を得てハノイにいたフランス軍を撃退する挙に出た。これに対し、フランスは1882年、黒旗軍の掃討を口実に再びハノイに軍隊を派遣。同時に清国は宗主国の義務としてベトナムへ派兵し、黒旗軍とともにフランス軍と戦った。だが、早期妥協を模索する清朝はフランス代表と天津で密約を取り交わし、ベトナムに対するフランスの保護権を認め、清国軍を国境線まで撤退させることを約束した。その後フランスは清国軍がただちに撤退しないことを条約違反だとして、1884年8月、台湾の基隆を奇襲攻撃し、清朝政府に宣戦を布告。ここに清仏戦争の幕が切って落とされた。

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黒旗軍

台湾から対岸の福州へと向かったフランス艦隊は馬尾軍港に停泊していた南洋艦隊を壊滅させ、さらに浙江沿岸へと北上する勢いをみせた。だが、フランス軍の快進撃もここまでだった。反撃に転じた清国軍と黒旗軍は各地でフランス軍を撃破。この戦闘でフランス側の提督クールベは戦死し、司令官のネグリエも重傷を負った。

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清仏戦争

戦局は海ではフランス軍が、陸では清国軍が優勢だった。だが、戦争全体の主導権でいえば、やはりフランス軍のほうが優勢だった。そのため清朝政府内に妥協もやむなしとする声が強くなり、講話交渉が開始された。そして1885年6月、ついに天津条約が締結されることになる。それによって清朝はベトナムの宗主権を放棄させられ、またフランスのベトナムにおける保護権を承認させられたのである。

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トンキン湾を占領したフランス軍

清仏戦争による敗北は洋務派官僚にも大きな衝撃をあたえた。洋務運動のような表面的な改革で果たして富強が可能なのか。そういった声が一部の知識人の間に高まってきたのである。だが、清朝が洋務運動と決別し、改革をもう一歩先へ進めるためにはもうひとつ苦い経験ーー日清戦争を経なければならなかった。


日清戦争

朝鮮もまたベトナムと同じく清朝の忠実な朝貢国であり、大中華帝国の一部をなす属邦であった。その朝鮮が隣国日本の圧力に屈し、開国を余儀なくされたのは1876年のことである。はじめ清国はこれを黙認する形をとっていたが、その後も日本が朝鮮半島へ介入する動きを見せるともはや宗主国として黙っているわけにいかない。やがて朝鮮半島は、その近代化を支援しようとする日本と属邦を失うまいとする清国による角遂の舞台となった。

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朝鮮を背後から操る清


そうした中、朝鮮官憲の苛斂誅求に抵抗した東学党が1894年に反乱を起こした。東学というのは西学(キリスト教)に対応する言葉で、儒仏道三教に朝鮮古来のシャーマニズムを取り入れた一種の新興宗教であった。しかし貧しい農民の支持を得た東学党の反乱は燎原の火のようにたちまち全国へと広がった。あわてた朝鮮政府は宗主国の清国に出兵を依頼、清国政府はそれに応じただちに軍を派遣した。一方、これに危機感を抱いた日本政府もまた軍隊を送り込んだ。これはかつて清国との間に結んだ天津条約(一方が朝鮮半島に派兵した場合、必ず一方にその旨照会することを取り決めた)に基づくものであった。

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東学党の乱の指導者全琫準


もっとも、かんじんの東学党の乱は両国軍が到着する前に和約がなりすでに解決のめどがついていた。だが、日本は今ここで近代化に着手しなければふたたび内乱が繰り返されるのは必至だとして清国と共同で朝鮮の内政改革を進めることを提案した。これに対し、現状維持を望む清国側は即時撤退を主張、両国の意見は真っ向から対立した。対立はやがて軍事的な衝突へと発展する。かくして1894年8月1日、日清戦争の火ぶたが切られることとなったのである。

だが、清国軍は日本軍の敵ではなかった。明治維新後、富国強兵を合言葉に国家総動員体制を整え、軍備増強を推し進めてきた日本軍に対し、清軍は武器こそ近代的であったものの国軍というのは名ばかりで実際は李鴻章の私兵ともいうべき北洋軍だったからだ。しかもその編成には地縁・血縁を重視するなど前近代的な要素が多く含まれていた。

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