歴史的に国際紛争の放火魔だった朝鮮人

朝鮮人はどういうわけか、有史以来、周辺国の対立をいたずらにあおるとともに、戦争を引き起こすきっかけを作ることが多かった。事実、歴史をひもといてみると朝鮮人を火種とした国際的な紛争や事件が意外なほど多いのには改めて驚かされる。その頻度といい、常習性といい、これはもはや政治的放火魔といってもいいかもしれない。以下、朝鮮人が直接間接に引き起こした歴史的な紛争や事件のあらましを時系列順に列挙してみた。

なおそれぞれの事件で朝鮮人が火種を生み出す図式を最初に示した。

白村江の戦い

朝鮮→日本VS唐
まず7世紀の白村江の戦いである。

この戦いの背景にあったのは高句麗、新羅、百済という朝鮮半島にあった三国同士の内乱である。そして戦いの直接のきっかけとなったのは、新羅が唐に告げ口して支援を要請したことにある。これにより唐軍が介入、さらにここに日本も参戦したことで朝鮮国内の内乱が国際紛争へと発展したのである。

しかしなぜ日本が参戦したのか。理由は、国際政治のバランスがくずれたことにある。それまで日本は両国とも友好関係にあったのだが、唐軍が参戦したことによって日本は中国をとるか百済をとるか二者択一を迫られてしまったのである。

もちろん日本が参戦したのは最終的には日本自身の決断によるものである。なので、戦争に対する責任がすべて朝鮮人にあるなどと言うつもりはない。そうではなく、ここでは最初の火種を生み出したのがほかならぬ朝鮮人の告げ口外交であったという事実を指摘しているだけである。

ここにあったのは、このあとみていく事件と同様、朝鮮人が火種となって周辺国を戦乱に巻き込むという構図である。そしてこの白村江の戦いはそうした構図が引き起こした有史以来最初の事件であったといえよう。

元寇

朝鮮→日本VSモンゴル
13世紀に起こった元寇も、直接のきっかけをつくったのは朝鮮人である。

当時、モンゴル軍は遠方の日本より南宋を攻撃することを優先的に考えていたが、ここに割って入ったのがすでにモンゴルに臣従していた高麗の忠烈王である。

彼はどういうわけか日本への攻撃に執念を燃やしており、日本への出兵をモンゴルの高官たちに執拗に要請した。そうして引き起こされたのが二度にわたるモンゴル軍の襲来だったのである。

日本史上最大の危機のひとつとされる元寇。こうして史実をひもといてみると、これもまた朝鮮人お得意の告げ口外交が引き起こしたものだったことがわかる。

丁卯胡乱

朝鮮→後金V朝鮮
次は丁卯胡乱(ていぼうこらん)である。

これは秀吉の朝鮮出兵が一段落した後の17世紀初頭に起こったもので、当時満州に勢力を伸ばしていた後金(後の清)が朝鮮に侵攻した事件である。

きっかけとなったのは、李适(りかつ)の乱という反政府暴動だ。これはすぐに鎮圧されたものの、その残党が後金へ逃げ込み、その首脳部に朝鮮を攻めるよう進言。その結果、引き起こされたのがこの丁卯胡乱である。

ここでもう一度流れを巻き戻してみてみよう。

まず李适(りかつ)の乱という反政府暴動が発生した。これはすぐに鎮圧された。その後、残党が後金へ逃げ込んだ。そして残党は朝鮮を攻めるよう後金首脳部に進言したーー。

もうおわかりであろう。そう、ここにあったのは、朝鮮人お得意の告げ口外交である。つまり、この丁卯胡乱は朝鮮伝統の告げ口外交が招いたものだったのである。

幸いにこの事件では後金と朝鮮以外、周辺諸国に火の粉は飛ばなかった。しかし、いたずらに戦乱の火種を生みだす韓の法則はここにも厳然と働いていたといえるだろう。

日清戦争

朝鮮→日本VS清
次に日清戦争をみてみよう。

よく知られているように日清戦争が起こったのは、東学党という宗教結社が当時の李朝政府に反旗を翻し、その鎮圧を李朝政府が清朝に要請したことがきっかけである。これに危機感を抱いた日本が軍を送りこみ、反発した清との間で勃発したのがこの戦争である。

ここにあるのは、朝鮮内部の混乱→外国(清国)への支援要請→国際政治の不安定化→国際戦争という、これまでみてきたものとまったく同じパターンである。

本来自ら鎮圧すべきところを外国の力を借りたことは、あきらかに強者にすりよる朝鮮伝統の事大主義であるし、さらに戦争前から清朝と日本、さらに欧米列強の間をあっちについたり、こっちについたりして渡り歩いていたのは朝鮮人お得意のコウモリ外交によるものであった。

こうした無責任な外交姿勢が周辺諸国間のあつれきを高め、最終的に国際戦争へ発展したという意味では、この日清戦争もまた朝鮮人による国際政治に対する放火事件だったといえるだろう。

乙未事変

朝鮮→ロシアVS日本
乙未事変というのは日清戦争後、日本人浪人らによって引き起こされたクーデター事件である。その際、朝鮮王妃である閔妃が殺害されたことから閔妃暗殺事件ともいわれる。

日本は日清戦争に勝利したものの、ロシアが主導した三国干渉によって、事実上勝利の果実を奪われてしまった。こうしたなか、国際政治の勢力バランスが日本からロシアに重心が移ったとみるや、日本によって政権を追われていた閔妃はロシアを後ろ盾にクーデターを決行、再び政権に返り咲いた。

日清戦争という決死の戦いの末、ようやく清朝の勢力を排除することに成功したと思ったのもつかのま、今度はロシアへの事大である。叛服常ならぬ朝鮮の態度に日本側が堪忍袋の緒を切らしたのはいわば当然であったかもしれない。

この事件は、こうしたなか日本公使三浦梧楼らがカウンタークーデターによって王宮を占拠、閔妃ら親露派を排除しようと試みたものである。また閔妃はその騒ぎの中で殺害された(閔妃を殺したのが日本人だったか朝鮮人だったかは諸説入り乱れている)。

一国の女帝が無惨に殺害されたというセンセーショナルな部分だけがとりざたされることの多いこの事件だが、その背景を知るものにしてみれば朝鮮伝統のコウモリ外交が最後にはどういった混乱と悲劇を生むのか、それを如実に示す教訓的なできごとともいえるだろう。

ハーグ密使事件

朝鮮→西洋列強VS日本
次はハーグ密使事件である。これは日本による外交権接収を定めた第二次日韓協約に反対する大韓帝国皇帝・高宗が、オランダのハーグで開催されていた万国平和会議に密使を派遣。その廃棄を訴えようとした事件である。

密使などというとなんとなくかっこいいが、要は「日本クンて悪いんだー。列強先生に言いつけてやろう」とはるばるヨーロッパにある職員室まで告げ口に行ったというまるで子供の喧嘩のような事件である。

これも強いものの庇護を求める朝鮮伝統の事大政策によるものであり、告げ口外交の典型的なパターンのひとつといえよう。

もっとも、せっかくはるばる派遣された使節だったものの、結局のところ誰にも相手にされず、すごすごと帰ってこざるをえなかったのは周知の通りである。

ただし、この列強への告げ口外交はたしかに短期的には失敗したものの、長期的にみれば必ずしも失敗だったとはいいきれない。というのも、その後、日本と西洋列強は実際に対立し、正面衝突することになったからだ。

その点、この事件が連合国による日本包囲網を形成する上で、ひとつのきっかけを提供したということであれば、その告げ口外交は一定の成功をおさめたといってもよいのかもしれない。

もちろん成功をおさめたといっても、子供の喧嘩に大人を引っ張り込むことに成功したというだけの、なんともなさけない「勝利」であるが…。

またここにはもうひとつ評価すべき点がある。それは従来東アジア圏内にとどまっていた告げ口外交が、一躍欧州デビューを果たしたことである…。

間島共産党暴動

朝鮮→中国VS日本
間島共産党暴動は、1930年に間島地方(満州東部)で朝鮮人共産党員が蜂起して、役所や住民などを襲った事件である。

この事件を読み解く上でまず押さえておきたいのは、その背景に朝鮮共産党の解党とそれにともなう組織改編の動きがあったことだ。当時、朝鮮共産党に所属していた朝鮮人社会主義者たちは、その後そのまま中国共産党満州支部に合流する予定だったのである。

一方、当時の中国共産党はのちに極左急進主義として批判される李立三が指導権を握っていた。いたずらにテロや暴動を引き起こし、犠牲者を出すその冒険主義的なやりかたには党内からも反対の声が多く上がっていた。にもかかわらず、合流を前にした彼ら朝鮮人共産党員はどういうわけか、自ら満州支部委員会に願い出た上でこの暴動を引き起こしたといわれる。どうやら李立三路線に忠実であることを示すため、それを手みやげにするつもりだったらしい。

要は「親分、あいつらぼこぼこにしてやりましたんで以後よしなに」というわけである。これも朝鮮人お得意の強者へのこびへつらいといえるだろう。

こうしてみると、この間島共産党暴動もまた朝鮮伝統の行動様式が生んだ歴史の火遊びだったことがわかる。

天長節事件と桜田門事件

朝鮮→中国VS日本
上海天長節事件は、第一次上海事変の後、天皇誕生日を祝っていた日本の要人を狙って引き起こされたテロ事件である。

犯人は尹奉吉という朝鮮人である。朝鮮人と第一次上海事変ーー。一見何のつながりもなさそうだが、これはそのタイミングからみて上海停戦協定の決裂を狙ったものである可能性が高い。というのも、この事件で重傷を負った重光葵在上海公使はちょうどその時期、上海停戦協定の交渉の真っ最中だったからだ。

またその数ヶ月前、同じく朝鮮人テロリストの李奉昌が天皇暗殺を狙って東京で引き起こした桜田門事件も同様にキナ臭い事件である。そして、これらふたつの事件に共通するのは、いずれもその背景に満州事変および第一次上海事変を泥沼化させようという意図が透けて見えることだ。

しかし、ではいったい誰が泥沼化を望んでいたのだろうか。可能性として真っ先に浮かび上がるのは、中国共産党である。当時、中国南部、江西省の井崗山を拠点に蠢動していた中国共産党は、国民党の数度にわたる囲剿(すみかを追い出す)作戦によって壊滅寸前の状態にあった。

ところが、共産党をその土壇場で救ったのは皮肉にももう一方の敵である日本軍であった。具体的には満州事変がきっかけである。満州事変の勃発によってそれどころではなくなった国民党軍が一時撤退を余儀なくされ、その結果、中国共産党は一息つくことができたのである。

ここからわかるのは、当時の中国共産党にしてみれば、日本と国民党軍が戦闘状態にある方が都合がよいという事実である。それだけ中国共産党への包囲圧力が減殺されるからだ。

ということは、この桜田門事件と上海天長節事件の裏に中国共産党の策動があったと考えるのはそれほど不自然なことではないだろう。なぜなら上海停戦協定が決裂し、日本と国民党の衝突が長引けばそれだけ共産党にとっては体勢を立て直す時間が稼げるからだ。

そして仮にそうであったならば、尹奉吉ら朝鮮人テロリストはいわゆる鉄砲玉だったのではあるまいか。またそうであれば、彼らは中国共産党に体よく利用されたということにもなるだろう。

もちろんこれらは仮定の話であり、確定した事実ではない。

しかし、全体を俯瞰すればみえてくるように、これら上海天長節事件と桜田門事件がいずれも日中の対立をあおることを目的とした朝鮮人による蠢動であった可能性はきわめて高いように思われる。

万宝山事件

朝鮮→中国VS日本
次に満州事変の直前に起こった万宝山事件をみてみよう。

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