世界の終わり

「世界の終わり」 という表現でいうと、昨今でいうとJ POPのアーティスト名が浮かぶが、どうやら著者は違うらしい。著者的に言うとそれはミッシェル・ガン・エレファントのデビュー楽曲らしい。

著者(便宜的に鬼という)はミッシェル・ガン・エレファントのレジェンド面々がステージ衣装であるモッズスーツを作った同じ「洋服の並木」という東京は世田谷の店で作るほどにこのバンドを敬愛してならない。

音楽に関して語りだすとベクトルのブレがブリンブリンになってしまうので、詳しいことは今後にするが、終わりというターミナルを最初のデビュー作に当てるバンドはなかなかにして、いやかなり珍しく、輪廻転生の感を感じている存在に感じてならない。

最初に最期を語る、その遠くまで見えている感性に感服してならない。その想像力の深さに脱帽さぜるを得ない。

昨今我々は日々のクソしょうもないトラブルに見舞われている。

YOUはビリヤードをやったことがあるだろうか。ビリヤードにはトラブルというブレイク後プレー中に落とすべき球がワチャワチャしている混沌状態がある、その状態をトラブルという。

そんなビリヤードで言うところの日々のゴチャゴチャしたトラブルもパンクやロックはやさしくすくい上げて、ノントラブルもしくはトラブル地点をぶち壊す破壊力をくれる。

無論偶然のトラブルもあるだろうが、もはやこの世においてはそれは必然である。

YOUがそのトラブルさえ、必然で楽しいものだと思えたなら、ネガティブをあえてポジティブと考えられたなら、それは脳のシナプスのバグであったとしても感謝すべきだ。

レディオ・ヘッドのトム・ヨークが「生きるのは楽しい。だが、クソみたいなことがありすぎる」と語っていた。

360°、それには賛成である。ただ、付け加え多少脚色も必要である。

ただただ楽しいだけの人生も、そりゃあそれで飽きるよねというわけである。

冒頭にも話したが、「世界の終わりに」という曲があってこれには人生のどうにもしようがない無常感が漂っている。終わりをわかって歩き出す訳だ。間違いなくわかっていることは必ず終わりがあるということだけだ。

それならいっそ終わりまで、命のオフサイドラインビタビタまで楽しまないと。筆者こと鬼は最近自殺志願者をやっとの思いで2週間かけて、その自殺をストップするに成功した。その理由は結局死ぬことは既知だが、死ぬまでの希望が計算できない偶然で未知にあることの限りなさ、未知の壮大さ、これまでの経験の限界の説得に尽きた。視野と知識と経験でしか人は死ねないのである。逆に豊かなそれを持つとなかなか楽しさが先行して死ねないのである。著者はそれを駆使した。

もしこれを読んでいる人の中に、死にたい人がいるなら真っ先に連絡をしてきてほしい。

電車に飛び込み、己をミンチにして、家族を悲しませる前に著者に連絡してきてほしい。

世界の終わりが来るまでにはまだかなり時間がある。地球としての世界の終わりは数億年、それからすると人の人生なぞたかがしれている。そんなたかがしれている時間を無碍にフィニッシュする必要はない。

であれば、筆者とアブサンでも飲もう。よっぽどましな明日の過ごし方が、少なくとも見つかるはずだから。

[完]

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