わかってあげなくてごめんはキモい

『目の前の事象に対して真摯(しんし)に向き合った時、「それは違う」「私はこう思う」となればぶつかるしかないから、それが時には「怒り」になるときもあるというだけじゃないですか。そういう意思表明をちゃんとしている人の方が面白いし、早くそれを受け入れろよ、「怒ってるんだ」とか言うなよっていう気持ちもありますね(笑)。「怒ってる、怖い」とか言われると、「何を被害者ぶってるんだ?」って余計に腹が立ちます(笑)。 』

【インタビュー】大森靖子、ニューアルバム『クソカワPARTY』に込めた思い「最もクソみたいなものを"カワイイ"として演出したい」より

https://trendnews.yahoo.co.jp/archives/573043/

大森さんのこういう苛烈で、むき出しで、猛々しくて、誰よりも真摯なところが大好きだ。怒っているという表層的な事実よりも、怒っているのが他人であれ自分であれなぜ怒っているのか?心の中と向き合うことの方がずっと大事だと思った。

こうやってちゃんと向き合って向き合うからこそ時にぶつかるのが私は普通であるべきと思っていたのだが一般的にはどうやら違うらしく当たり障りのない言葉で場をうまくおさめるスキルの方が「よき大人」として求められるようだ。それがなんだか悲しくて「大森さんはそういう人だから」「やばい人だから」「アーティストだから」とファンまで言い出すのも悲しくてでも人がこう思うというのと私がこう思うというのはやっぱり別個であるべきでそれこそただただ別の前提に立っているというだけの話で互いにこっちに正そうなんてしてはならなくて、だから普通はこうでしょとか言われても私だけは「これが普通」と立ち続けようと思った。JAPANESE SICK MUSIC 虎視眈々と”それは違う”と。これが普通で…

そもそも誰かが思いつくような手垢に塗れた言葉ではなく、もっとそうじゃない言葉で的確に悪意を表明するべきだと思った。「そうじゃない言葉で的確に悪意を表明するべき」、これは大森さんの昔のブログNO MUSIC, NO MAGIC?からの引用だ。このブログは暗唱できるほど好きだ。

問題なのは「これはパワハラです」と言われて「そうかパワハラなんだ」と受け取ってしまうことだ。自分が見聞きしたことの評価を自分では下せず他人の判断に委ねてしまうのは心の弱さだ。それ誰かに指示でもされてんの?と言いたくなるほど「確かに大声で怒鳴るのはよくないよ。でもさ…」と枕詞的につけるのにも辟易する。感情的にならざるを得ないほど追い詰められた大森さんの心には誰も見向きもしないんですね。どんなに言葉を重ねても言葉たちがすり抜けていく感覚、何を言っても伝わらない、向き合われない、そんなどうしようもなさやるせなさから感情を爆発させてしまう時ってもう一切コントロール不可能だと思うが、「確かによくないよ」なんて冷静に言えるのは単純にそういうコミュニケーションを避けて生きていける器用な人間が多いことの証明か。

大森さんはすごく優しい人だと思うけどそれはなんでも肯定してくれるとか怒らないで許してくれるとかそういう種類の優しさではないと思う(そもそもそれは優しさではない)。むしろ大森さんは否定の人だと思う。大森さんの優しさというのは現状の悪しき価値観を否定して斬新な希望を提示する、そういう種類の優しさだ。まあ曲を聴けばわかるだろと思う。曲に全部出ている。こんな曲描けるなんて、なんて優しい人なんだとどの曲を聴いても思う。

「側から見たらわからないよ」じゃねえよ。わからないならまずは考え抜けよ。考え抜いてわからないならそれでいいよ。わかってあげなくてごめんはキモい。わからないのもキモいがわかってあげなくてごめんはもっとキモい。そもそもわかって「あげる」という思考が傲慢だ。同情されるなんてもっと惨めだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?