抽象

小さい頃、家の近くのプールに泳ぎに行った。無我夢中で水を掻き分け、飽きて引き上げた後、ぼんやりとした体の重さに包まれて戸惑った。なんだか自分が浮遊したままで、地面に足が着いて立っているのが不思議に思えた。プールには姉と父親が一緒に着いて行って、私は父親の自転車の後ろに座って帰った。
その時のなんとも言えない安心感を、成人した今でも何度も思い出す。父親の大きすぎる背中にもたれかかっているだけで、ちゃんと家に着くことを当たり前のように信じきっていた。身を委ね、車輪がするすると転がっていくのをただ感じれば、優しい母親が出迎えてくれるのを知っていた。私が唯一知っていることはそれだけだった。

2022年になったばかりの一月中旬、凍えるほど寒い時期に自転車を初めて購入した。知的障害を持つ友人が大の自転車好きで、自転車の乗り方や細かなパーツのことなどを話し出すと止まらない。後に一緒に自転車屋に行くことになった。彼は適切な会話のキャッチボールが苦手なようなので、お喋りは切り上げて二人でサイクリングをしたら楽しいかもしれない、と直感的に思ったのと、自転車屋の店員の愛想の良さが気に入って、勢いのままローンを組んだ。
ドロップハンドルで背中を丸めて乗るスポーティーな自転車を選んだ。
納品の日、風が刺すように体に当たるのに、そんなことは気にならないほど自転車に乗るのは楽しかった。最初はぎこちなく、何度も人に当たりそうになったり、車に轢かれそうになった場面が何度もあり、落ち込むこともあったが、それも徐々に慣れてきて片手でハンドルを握り進みながら、いろんな道を自転車を漕いで探索できるようになった。あの日のように自転車を漕ぐ父親の存在が身近にいなくても、自分の足でペダルを漕いで色んな場所に行く事ができるようになったのだ。
時はあっという間に過ぎて、夏になり、蒸し暑くて眠れない夜にコソコソと自転車を家から持ち出して、車が全く走っていない道路を、蛇がうねりながら進んでいくような軌道を描いて気ままに漕いだ。
人の気配を全く感じず、ビルの小さな灯りだけが照っている景色は、睡眠中にみる夢よりも幻想的で私の存在が浮遊しているようだった。信号が意味をなさずに点滅し続けている。自転車のライトを気にする人も車も無い。目に映る全ての灯り達は、私の行く先を妨害する訳でも照らすわけでもなく、純粋な生命としての存在を示しているように思えた。夜に目を閉じた時だけにしかみれない静かな情景が、私の目の前に広がっていた。
他者が介在しない、私だけの幸福な居場所。

私はこの頃から、この現実世界が掴みどころがなく実態のない夢の中を彷徨っているだけなのだ、という確信のようなものが芽生え始めていた。睡眠中にみる情景と現実にみる情景との境目が無くなったのだ。努力して到達するべき場所も無く、永遠に遊び呆けて良いところ。子供の頃に疑うことさえなかった、当たり前のように温もりある家と呼べる空間が広がっている感覚に近い心持ちでいる日が多くなった。

8月の半ばに流行りの感染症に罹りしばらく家に篭っている時間があった。酷い高熱が出て頭と体中の至るところが痛くなり、その症状が治った後もずっと辛かった。体中に広がる発疹は数ヶ月経っても消えず、しばらく精神的な落ち込みが続き、その間は今まで楽しめていたことに興味が持てなくなった。
長い間引きこもっていると、気が滅入って仕方がなかったので、散歩がてら、近くの映画館で上映されていたまたもや流行りの作品を興味本位で観に行った。少しでも気分を上げたかった。

『わたしは最悪。』というフランス映画だった。
女性主人公が30歳という年齢設定が私と同年代で刺さりやすかったのかもしれない。主人公のユリヤが一向に人生の方向性が定まらず、序盤から仕事も恋愛も好き勝手しているユリヤの、共感できるようでできない微妙な立ち位置についていけず退屈に感じていたのだが、中盤から話の流れが一気に変わってからスクリーンに釘付けになった。死が間近に迫っていることを悟ったユリヤのことを愛する元婚約者にフォーカスがうつるのだ。彼はずっとキャリアでの成功だけを追い求めていたが、今になってその全てが虚構でありユリヤに隠していた弱さを露呈するようになる。絞り出す台詞ひとつひとつに感情移入して号泣したのだった。それは私がずっと求めていたような他者への優しさに溢れたものだった。
彼は最後に彼女に「自信を持たせてあげられなかったことだけ後悔している」と話す。作者の言葉の贈り物を受け取ったと感じた。
私はこの感覚をずっと前から知っている。自分がこの世から消えていく前に遺せる唯一のプレゼント、それを私は誰かからずっと受け取っていたという瞬きを思い出した。
それは自分という存在と人生への無条件の信頼である。

時と共に儚く流れていくような他者ではなく、芯から共に寄り添う他者。
私よりも私を深く熟知している他者。
自分よりも、自分を見守り愛してくれている意識が内側に確かに存在している。

霧がかったように相手の顔がみえない。
水の中を漂うように音がくぐもって聴こえる。さまざまな輪郭が溶けてゆく。この世の色んな法則が意味を成さない。
精神の進む先全てが裏返って内側に集中していく。
そんな状態でいるからこそみえてくる実態が確かにある気がしている。
その実態とは心でもなく、過ぎてゆく日々の中で唯一無自覚にも認識できていること。

中学生の頃、乱視が酷くなり黒板の板書が読めなくなった。ぼんやりと霞んで漢字が分からない。私は先生に「目が悪い」ということを伝えられなかった。教室の一番前の席に移動させられるのが嫌だった。自分の存在がよく目立つから。そのまま読めない文字を書き写すことを諦めた。
心と他者に執着しすぎていた人間不信の10代の頃の苦しみの数々は、生きている感覚そのものだった。映画の中のユリヤがこの複雑な世界を単純に受け入れることが難しかったように、真っ青に晴れ渡った空が広がっていても、一点の曇りのない空を受け止めることができなかった。この空は当時付き合っていた彼の部屋の窓から観たことがあった。あの瞬間は幸福そのものだったのだと思うが、どんな状況であろうと恐ろしく不安だったのだ。どこかで怪しい暗い雲が流れてくるのを待った。雨が降ったら私と呼べる心と感情が暴れ出して、空のことは完璧に忘れて逃げることができた。世の中を彷徨うことは私の輪郭を濃くしていく。
今の私は生きているのか死んでいるのかも分からない状態に近い。その感覚が気持ちよい。起きているのか眠っているかの瀬戸際、心の中で丁寧に描き上げた絵を、わざとパズルのようにバラバラにしてみせて放り投げてみた。それでもう一度ピースを組み合わせて私の心に照らし合わし、一致するのか試して遊んでみる。空、空、あの青空。あの平和で退屈な空間から抜け出して、たくさんの悲惨で豊かなストーリーに溺れる。
しかしどれだけ努力しても逆らえない流れが私を運んでいく。そこはいつも平安で何もない場所。どんなに動き回ってもちゃんと元に戻る、オキアガリコボシが揺れなくなるあの一瞬。

また今日は長い長い夢から覚めて昼に起きた。親は用事で出掛けているようで私ひとりだけだ。音楽も流さず、テレビもつけずにこの文章をひたすら打っている。冷蔵庫のジー…という音が部屋に響いている。今の私は安心している、と思う。多少の鱗雲が浮かんだ空は晴れ渡っている。

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