FF14黄金のレガシーが与える「違和感」について

【はじめに】
この記事は、FF14こと「FINAL FANTASY XIV 黄金のレガシー」についての独断と偏見に基づく1ユーザーの所感です。全体を通してネガティブな話になっていますが、すべてのユーザーを主語としているわけではないという点をご理解いただけましたら幸いです。
また、物語終盤(2つ目の討滅前ぐらいまで)のネタバレを含みます。ご注意ください。






まず全体的に気になってしまったのが、細部の大雑把さです。

幼少のウクラマトは誰に、何故、命を狙われたのか?
コーナはなぜ両親に置いて行かれてしまったのか?
ゾラージャの母親、グルージャジャのお妃様についてノータッチなのはなぜ?
ヴァリガルマンダの封印を解いたバクージャジャのお咎めはどうなったのか?

各キャラクターそれぞれ魅力があるのに、ありとあらゆる「なぜ?」が未消化のまま、ただただ「シナリオの大筋」を突き通すために、深掘りもされないまま、辻褄を合わせるために都合よく設置された舞台装置のようになってしまっていたのが本当にもったいなかった。

そこまでして立たせたかった「シナリオの大筋」にあたるウクラマトすら、笑顔笑顔笑顔親父親父親父平和平和平和知って好きになる知って好きになる知って好きになる大好き大好き大好きと、まるでコピペのように同じ言葉を誰にでも繰り返していて、伝える言葉も抱いているであろう想いも全部が薄っぺらく中身のないものに感じられてしまって、ストーリーが進めば進むほど「もういいよ……」と辟易してしまっていました。
「相手のことを知って好きになる」はいいことなのでしょう。知ろうとする姿勢は素晴らしいと思います。ただ、赤の他人である旅先の人々よりも先に「知る」必要があった相手がいるのではありませんか。血は繋がってはいないけれど、あなたはあなたの兄のことを、知ろうとしましたか。
シナリオとしてはゾラージャを何を考えているかわからない、ミステリアス、そんなキャラにしたかったのかもしれませんが、一方でのウクラマトの信条と矛盾が生じていませんか。

グルージャジャにしても、実の息子の抱える仄暗い感情ときちんと向き合っていましたか。「気風のいい気さくで豪快で、民にも子供達にも慕われる王」を描きたかったのかもしれませんが、そこに、唯一血のつながった実の息子の姿はありましたか。
継承の儀が終わり、継承式に至るまで、どうして誰も…実の父親ですら、ゾラージャの不在を心から案じなかったのですか。
王位継承レースを途中で失格になって傷心であろう彼について、「旅にでも出たんじゃないか」の一言二言で片付けてみんな笑顔!ハッピーエンド!として終わらせてしまったのは非常に違和感を感じました。

バクージャジャの行いも、「生まれがああだったから、こう生きるしかなかった」は分かります。が、だからといって超えてはいけない一線を超えて、かつそれに対して糾弾されることも失格にされることもなく、それまでと同じノリ…よもすればそれよりも軽いノリの料理対決に、なぜそしらぬ顔で混ざってきているのですか。その後の沙汰も、全ての元凶である父親に全てのヘイトを押し付けて解決したことになってしまっていたのも、とてももったいなく思います。
マムージャ達が抱えていた問題、抱いていた想いに対するアンサーもいささか軽率というか、乱暴で浅慮なものに感じました。生活環境が激変し、いわば貧しく立場的に弱い状態にあった、ゆえに王位を得て陽光の下に土地を得て豊かな暮らしをと望んだ彼らに、現在の環境でも生育する農作物を与えてはい解決というのは、多少の認識の齟齬を感じます。それで解決するような安っぽい願い、想い、業だったのかと錯覚しかねませんし、その問題を先代の、武と理、情に厚く思慮深い連王がなぜ解決できていなかったのか?という部分についても疑問が残ります。
王位継承レースのためにあえて問題を残しておいた、という可能性もありますが、そんなことをする王は為政者として論外です。「民を知り、国を知る」ことの重要性を学ばせるために今回の王位継承レースを執り行ったのならば、連王自身はなぜマムージャ達の置かれた立場や窮状を知り、解決しようとしなかったのでしょうか。これも、「連王ですら心を開かせることのできなかったマムージャ達とも和解できるウクラマト!」を体現するための舞台装置にされてしまっている感が否めません。
また、グルージャジャ自身も忌むべき手法で生まれ出た双頭でありながら、当の本人はそれをどう受け止め、どう感じ、どう考え、どう行動しようとしたのかが一切触れられていなかったことも疑問が残ります。もしかしたら、マムークの双血の教えとはまったく無関係の、たまたま2つの種族が交わって生まれたタイプなのかもしれませんが、それにしても、そのあたりの言及はあってもよかったのではないでしょうか。

ウクラマト自身も、王になる候補として無知すぎるというか、「知るための余力としての無知」だったのでしょうが、それにしても目に余るというか…王都から出たこともないのに国を知った気になっていた、自分たちの住まう場所すら知らなかった人を、果たして王と認めたいと思えるのでしょうか。じっくり時間をかけて知って、感じて、学んでもらえれば、あるいはそう思えるようになるかもしれませんが、そういったプロセスをすべて飛び越えて、問題のひとつを解決した、種族の一面を垣間見た、それぐらいで「王にふさわしい!」と持て囃されることには、違和感を感じてしまっていました。
ウクラマトの「好きになるために知りたい!」「知ったから好きになった!」も、問題の規模によってはまかり通るかもしれませんが、相手の抱える問題の深刻さや種族の気質などによっては、「知りたい」「好きになりたい」の押し売りになっていないのか?と感じてしまいます。隠キャのパーソナルスペースにずかずか入り込む陽キャ(悪気はない)の構図に似たものを感じました。また、決して長い付き合いではなかったにもかかわらず暁の面々すらその流れに迎合していたり(ウクラマトを家族レベルの愛称で呼んだり)するのも…ちょっと、違和感を感じてしまった部分ではあるのですが…

そして継承式が終わって訪れたサカ・トラル。
ここにもまた、ヨカ・トラルとは別の種族が暮らし、別の文化を築いているわけですが、彼らは王の選者にしなくてよかったのか???彼らのことを知らずに王位継承を決めたのか?????と更に違和感は膨らみます。
ここでは「西部劇みたいなのをやりたかったんだろうな」というのは伝わってきました。でも、伝わってきたのはそれぐらいでした。
ヘイザ・アロ族については少しではありますがその生き方や価値観に触れる機会がありましたが、シャトナ族に至っては、ドームの内側に巻き込まれたせいで本来の生活や思想なんかはわからずじまい。
その辺を深掘りしてしまうとコーナやエレンヴィル周りがややこしくなりそうだというのもありそうですが、深掘りしてややこしくするぐらいでちょうど良かったのでは?と思ってしまいます。特にコーナは、両親がどうなったのか、コーナ自身のヘイザ・アロ族への認識の変化があったのならそれも、ぶちまけてしまって、深掘りの材料にしてもいいぐらいではないのかと感じます。

今回のストーリーの主軸は「王位を巡る物語」であり、それを求めようとするそれぞれの候補者の思惑もまたそれぞれでした。ただ、そのひとつひとつの描き方が非常に大雑把で、圧倒的に時間と情報と説明が不足ている…という印象が強いです。
特に今回は個々の問題ではなく、「トライヨラという巨大な国家を背負っていく王を選ぶための儀式とその物語」であり、けれど、「やりたいことを詰め込んだ」せいで非常に荒が目立ち、強引さを感じるストーリーとなってしまっていることが非常に残念でなりません。
せっかく「トラル大陸」や「トライヨラ」といった素晴らしい食材があるのに、調理法を誤ってしまっているのでは…と感じました。まさに「弱火で15分なら強火で5分だな!」を体現しているのではないかと。
それこそ、前半で全てを詰め込むのではなく、パッチ全体とヨカ・トラルとサカ・トラル、全部を使って王位継承戦と各キャラクターの深掘りをしてもいいぐらいだったのでは…?と思ってしまったほどです。

そんな細かな違和感やノイズが魚の小骨のように喉につっかえたまま訪れたドーム内、そこで「FF9」というひとつの作品が受けた仕打ちで完全にとどめを刺されてしまって、現在は歩みを止めてしまっている次第です(FF9要素の扱いについては賛否があり多くの人たちが触れているのでここでは割愛します)。

レイドはやりたいので頑張ってクリアしようとは思いますが…もはや「レイドを人質に取られているから」という以上の気持ちを抱けていないのが現状です。

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