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全ての仕事は本来”志事”だった。

最近のメディア(特にテレビ)のニュースを見ていると鬱々とした気持ちになることがある。

個人的には、どう考えても「東京五輪」を開催することの意義は感じられないし、政府や都の(というか、一部の政治家の)方向性がまったくもって”信頼に値しない”と思ってしまうのです。

これは、ある人が言っていた言葉なんだけど、

『全ての仕事は祈りに似ている。』

僕も、そうだな。って思うのです。

医師になることを志した一人の人間の思いには、例えばこう言ったものがあったのだろうと思う。

「怪我や病気がなくなり全ての人が健やかで幸せな人生が送れるように」
「病の苦しみを少しでも軽くし、
    人間としての尊厳を持って生涯を全うできるように」

というような、”祈り”のような心だ。

最初はそうであった、と僕は思いたいし、その思いを魂の柱として確かにもっている人たちがほとんどだと思う。

”世の中から犯罪がなくなればいい”という正義の心で、皆が安心して日々の生活ができるように、と警察官を志す人も同じように「祈り」を抱いている人たちだ。災害で苦しむ人たちを一刻も早く救いたい、という自衛官たちも「祈りの人」だ。

医師の理想は、もし、それが実現したら、自分の”仕事”はいらなくなる。
一人のお巡りさんの理想は、もし、それが実現したら、何から人々を守るのだろう。
災害がなくなり、戦争もなくなり、完全に平和なパラダイスになったとしたら、自衛隊の人たちや、軍の兵士たちは仕事を失うかもしれない。

そう言ったことは起こったりはしないだろうけれど、存在意義の否定のようなものが、その「祈り」にはある。

しかし、個々の「祈り」や「理想」があり、同じ志を持っていた者たちが集まった時、”組織”が生まれた時、「祈り」が祈りではなくなることがある。

”組織”の最大の目的は、存続維持であり、自らの優位性の確保と確立だ。

”会”となることで、個々人の理想に向かった”志事”ではなく、組織に対する”仕え事”に変わっていく。組織の方針に反するものには、圧力がかけられていくからだ。

一人の政治家も(世襲政治家や二代目とかは除いて)、最初は

「世の中を良くしたい」

という理想があったのだと、僕は思いたい。中には、独りよがりなものもあるかもしれないけれど。

”個人”として、感じることや思うことを表現することって、自然なことだし、誰かに制限されたりすることじゃない。表現の自由、言論の自由を憲法で”あえて”示しているだけで、憲法に書かなきゃいけないことではないはずのことなんだ、本当は。(って、僕は思っている。)

仮に組織だからといって、”組織”の方向性と一致しないから、即削除。ってなってしまったら、組織は磨かれていかないし、発展もしないだろう。

遥か遠くにある、自らの理想を形にするために、人々は自らの知識を、技術を磨き上げ、研鑽し、歩んできたはずだし、これからもそうであって欲しいと思う。

結果として、認められたり、称賛されたり、多くの財を成すことになるかもしれないが、あくまでもそれは”結果として”のこと。

“財を成すため”に、理想を実現する手段としてではなく、理想を忘れ、”手段”そのものが目的となってしまっては、魂を売り渡してしまったのと同じなのだろう。とか、そんな風に思うのです。

”考えること”を諦めてしまわないように。

僕は、こう思っている、こう考えている。と、「僕」を明らかにするために、こうして記しています。

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