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“スピリチュアル”について考えてみる

 僕は、いつも”言葉”について考えています。”言葉”ほど曖昧な情報伝達手段はないからです。

 例えば僕と同じような、いわゆる「スピリチュアル畑」の人たちと触れ合うときでも、まったくスピリチュアルに関心のない「物質至上主義」の人たちに触れ合うときでも、ある一つの言葉の背景にある意味や、その人がその瞬間に話した言葉に込められた想いや意図(単に”意味”ということではなくて)が、いったいどういうものなのか?ということに意識を向けていくことを心がけているのですが・・・。

 “スピリチュアル”、と聞いただけで、怪しさや胡散臭さを感じる、という人は未だたくさんいます。また、苦しい状況の中で、何か目に見えないものの力を信じたい、という思いからスピリチュアルなことに傾倒していく人の気持ちも、僕は理解できます。

 最近、強く感じるのは「心についてのこと」や「霊的な存在としての自分(人間)」ということに関して、体系立てて、学んでいくことのできる環境がほとんどない、そういった学びの機会や場を作ることに対して自分のできることをやっていきたい、ということです。

 過去に書いたブログや、機会があるたびに「情報」について、話すことがあります。現代社会は、インターネットの普及、SNSの普及によって、誰もが情報を発信できるようになってきたし、スマホが手元にないと落ち着かない。という人たちも増えてきているでしょう。

 いつでも「情報」に触れられる。という安心感なのか、または誰かとの「つながり」の象徴としてのスマホなのかもしれないけれど、自分が触れている情報が、実際にどういうものなのか?を吟味しようとする人は意外に少ないですよね。今の時代、かつてないほどに「情報」というものの価値の幅が広くなった時代はないでしょうし、玉石混淆の情報の荒波の中を私たちは生きていると言えるでしょう。

 「情報」ということに関して、語ろうとするならスピリチュアルな分野以外にも、本当にいろんなことが議論できるだろうし、論じる価値は大いにあると思うけれど、今回は「スピリチュアル」ということについて、思索を巡らせてみたいと思います。

 遥か遠い昔、人は自然現象の中に、さまざまな「大いなる存在」を見てきました。

 空に輝く太陽ひとつとっても、「お天道様」という言葉があったりするし、世界各地を見ても原始的な宗教は、おおよそ”自然”そのものを崇拝するものがほとんどです。
 「自然と人とのつながり」の中で、人類が体験してきたことや、積み上げてきたもの、培ってきたものが『教え』として受け継がれてきた流れの中で、それらは「年長者の知恵」として、若い世代に言い伝えられてきたという人間の精神の進化の過程があるのです。

 さて、「知っていることの優位性」というものに人間が気づいたのはいつの時代の頃でしょうか?

 いつの時代からか、「知る者」と「知らざる者」の間に大きな溝が出来上がりました。そのことは「知っていることの優位性」に気づいた誰かの作為的な意図がなかったとは言えないでしょう。

 私たちは肉体だけの存在ではない。これは紛れもない事実です。(少なくとも、僕はそう確信しています。)

 ”スピリチュアル”という言葉は、ラテン語の spiritusに由来する言葉なんですね。(息、呼吸、魂、 勇気、活気などの意)
 以前日本では「精神世界」という言葉で表現されていたものですが、最近では、言葉としての市民権のようなものが確立されたのか、「スピ系」という言葉も生まれてきました。

 英語で書くと”spiritual”、(物質的に対比して)精神的な、霊的な、という意味になります。”spirit”は精神、霊という意味ですが、どちらかというと「精神」という意味合いのほうが強いのではないかな?と思います。

 また、「スピリチュアリティ」という言葉もあります。英語で表記すると
”spirituality”こちらは精神性、霊性という意味になります。

 なんか、英語の授業みたいになってきましたね(笑。

 ”人間死んだら終わり”とか、”あの世なんてないし、神さまなんていない”とか、まあ、そういう考え方を持っている人がいけない、とは言いませんが(それも一つの考え方ですからね)、それでも、僕が問いかけたいのは、

「あなたにも、自分の思いや自分の気持ちや、”心”ってものがありますよね?」

ということなんです。

 私たちは、現実世界、物質世界で肉体を持って生きていますが、本質的な意味での「活動」はそれぞれの心や精神、あるいは魂といった”目に見えない”領域での活動が本質なのです。

「あなた方は、”何をするか?”というレベルでの意思決定が『選択』だ、と思っているようだが、行動のレベルではなく心や精神のレベルで、”自分とはどういう存在であるか?”によって、その『選択』が影響を受けていることに気づいていない。”選択”は、あなたがあなた自身をどう定義し、あなた自身の体験をどう受け止めているか?、つまり、心のレベルで決定している。」

 私のガイドである”J”は、このように日々伝えてきているのですが、実際にその通りだと感じています。

 スピリチュアルとは、「自分との向き合い方、自分が”世界”とどのように向き合っているのか?」を見つめ直していく、学びであり、その中で、いわゆる霊感や第六感と言われる、肉体的な五感を超えた感覚の受け止め方や活用の方法を身につけていくのであって、その”向き合い方”を無視した状態で、単に霊感や第六感というサイキックな能力を開花させようというのは、スピリチュアルなあり方とは言えないのです。

 ”自分自身と向き合う”というプロセス、自分の心や気持ちや感じていることを大切にしていく、というそのプロセスを経ていくからこそ、自分以外の人の振る舞いや表現といった、肉体的な目で見て取れること裏側や背景に、その人の心のうちが現れていることがわかるようになるのです。

 スピリチュアルな能力を開花させることと、サイキックな能力を開花させることは別のものです。

 単にサイキックな能力が強いからといって、スピリチュアルな物事の捉え方を理解していない状態では、その能力が人を傷つけることになってしまうことも多いでしょう。そしてそれは、同時にその人自身(の魂)も傷つけてしまうものになるのです。
 それはまるで、高度な道具ほど便利だけれど、間違えて使用してしまった時の危険性も大きい、という諸刃の剣のようです。

 自分の心を大切に扱う。

 それは自分だけがよければ良い、というのではなくて、”心”というものが、誰のうちにもある。という思いへとつながっていく中で、自分と同じように、自分以外の人たちへも思いを向けることができるようになる。という成長の道筋を示してくれるものが“スピリチュアル”なのです。


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