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SDGsって・・・。

 最近ちょっとしたきっかけがあって、ルドルフ・シュタイナーの四大著書の一つ、『自由の哲学』(Die Philosophie der Freiheit)を再読している。

 1918年に新版が発行され、初版はその25年ほど前、というから今から120年以上前に発表されたもの、ということになりますね。

 “自由”である。とは、どういうことなのか?

 おそらく、日本人であるなら、多くの人が「自分は自由だ」ということを認めていると思う。もちろん、程度の差はあれ多少の不自由さを感じつつも、基本的には自由だ、と思っていることだろう。

 「本当のことを知りたいんだよ。」という強い欲求のようなものが、僕にはあって、ごく一般的に生活している人からすると、「そんなこと考えてどうするの?」って言われてしまうようなことを考えずにいられないところがあるんです。(自分でも厄介だと思いますが💦)

 意識できている自分と、そうでない自分って誰の中でもあると思うんです。その「そうでない」っていうのは、無意識的な自分という感じなのですが・・・。

「選択」と「反応」

というふうに表現することもあります。

選択できること、が「自由」という解釈もあるでしょうし、一面では確かに「選択肢がない」ことよりも「選択肢がある」ことの方が自由に見えるでしょう。

「選べる」ということが自由だとするなら、「選ばない」ということも自由です。そういうふうに見ていくと、「自由」というものがつかみどころのないもののように、感じます。

 今日の記事の中で、巷で言われている「SDGs」について、今読んでいる「自由の哲学」の中で再び触れることになった言葉に刺激されて、思うことを書きたいと思った次第です。

 この著書の中で、ゲーテ(ドイツの詩人、劇作家、自然科学者1749−1832ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(wiki))が記した一説が紹介されている。

「我々は彼女(自然)の中に包まれて生きているが、彼女にとっては異邦人に過ぎない。彼女は絶え間なく我々と話し合っているのに、自分の秘密を漏らそうとはしない。」

「すべての人間は彼女の中におり、彼女はすべての人間の中にいる。」

自然と人間。

“自然との調和”とか、“自然に優しい”とか、そういう言葉がある。

一方で、この数日の日本列島の大雪とか、夏場の台風や豪雨、世界的に見ても甚大な被害をもたらす自然災害、というものがある。

一見矛盾するようだけれど、人間は「自然」と戦ってきたという歴史がある。一方で彼女(自然)のめぐみ無くしては、すべての人類は明日の糧にも困ることだろう。

SDGs、という言葉を耳にするたび、「人間の傲慢さ」と「テクノロジーへの過信」や「自然を超越したというような勘違い」を、僕は感じてしまうのです。

ここで、「自由」ということに戻ってくるのですが、技術が進歩し、もはや人の意識をクラウドに載せることができるんじゃないか?というようなところまできているようなのですが(詳しいことは知りませんよ、IT技術の専門家ではないので)、こうした飛躍的な技術の進歩発展によって、“不自由”になっていることってないでしょうか?

SF映画ではないけれど、なんとなく危うい雰囲気を感じているのです。

”世界”というか、“世界を牛耳っているつもりの人たち”が持っていこうとしている方向ってあると思っていて、まあ世間的にいう「陰謀論」なのかもしれませんが、至る所に目に止まるように置かれているさまざまな情報って、なんの意図もなく「そこにあること」ってないと思うのです。

シュタイナー的には、15世紀くらいまでは「信じること」で人々が生きてきた時代だと言います(悟性魂の時代)。そしてその後、人々は「信じる」のではなく、「知ること」によって生きようとしていると言います。

「意識魂」の時代、簡単にいうと「自分で考える」時代で良いのかな?(簡単すぎるか・・・)

情報の流れる速度が、あまりに速くなり過ぎて、考える余裕すら与えられないようなそんな乱暴な社会になってきているのではないか、という思いがあります。
(そう、JOJOの第6部のメイド・イン・ヘブンが発動しているんじゃないか?みたいな(笑))

そういう無慈悲な時代の流れの中で、僕はやっぱり「考えること」そして「感じること」は捨てたくないと思うのです。なぜなら、そのことをなくしては、僕は「自由」だとは思えないからなのです。


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