洞山 VISION 2

吾常於此切
われ、常に、ここにおいて切(せつ)なり

洞山良价(とうざんりょうかい)禅師の言葉である。
これは弟子からのある質問に答えたときのものだ。
この「切」の一字には、洞山禅師の万感の想いが籠められているように、わたくしには感じられる。
「切」には、色々な解釈があるが、「ひたすら」という意味がもっとも適切だろう。
「切々」「痛切」「親切」「大切」「一切」などの言い方がある。
常に「今ここ」の生が、かけがえのない命の時だというのだろう。
あたかも余命宣告を受けた人の生が、もう幾日も無くなって、そして今という時を生きている、そんな切羽詰まった状況であったなら、それは「切」であろう。
洞山禅師の「切」は、そんな、人生を総括するところの感興の(感動の)言葉なのではないだろうか。
この生が、いとおしく、かけがえがなく、もったいない。

「切」は、文字通りには、切るという意味だが、ここでは時間が切られている。
過去はすでに通り過ぎ、未来はまだやって来ていない。
この現在という瞬間に極まっている。
その現在をトータルに生きる、それ以外は思考であり、時間であり、幻想なのだ。
洞山禅師は、生の真実を生きている。
無量の命を生きている。
そこに生きとし生けるものへの祈りがある。
この喜びをどのようにして伝えたら良いだろうか。

われ、常に、ここにおいて切なり
私はここに、類稀な、人間的なこころの開花を見るように思うのである。
至誠の人、洞山禅師。
赤心切切。

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