峨山慈棹和尚伝 4

月船禅慧禅師が、三春・高乾院に住していたのは、十余年間であった。
峨山慈棹禅師は、少年のころ月船禅師のもとで出家して仏道を学んでいたが、十六の年にはじめて諸方に行脚に出ている。
まず九州・豊後(大分)に赴き、万寿寺の虚霊、日向(宮崎)・大光寺の翠巌、また丹波・法常寺の大道などに参じている。これらの宗匠たちは、古月禅師の下で学んだ人々であるから、もしかすると師・月船の指示によっての参禅であったか、あるいは峨山が師の跡を辿ろうとしたということかも知れない。
このようにして広く各地を行脚し、長年にわたって歴参した禅匠の数は、三十人以上に及んだという。
しかし峨山は、自ら納得のいく心境に達する事はできなかった。その求道の純粋さ、そしてその激烈さに応対してくれる者は、誰一人いなかったかのようである。

失望して峨山は、師・月船のもとに帰ってきた。この時月船は武蔵国・永田(横浜市)に移っていた。宝林寺(円覚寺派)の中に、東輝庵という小庵を結び、以来三十七年間に亘って大いに禅風を挙揚し、優れた弟子たちを輩出することになる。物先海旭、誠拙周樗については先に見た通りである。最も良く知られているのは、後に博多の聖福寺に住する仙厓義梵(せんがいぎぼん)で、この人の洒脱で飄々とした禅画は多くの人を魅了して止まない。宝林寺の境内の中には、仙厓禅師修行跡と彫られた石碑が立っている。そこが東輝庵がかつて建っていた跡地なのである。あの仙厓さんが修行したのが、この宝林寺だというのだろう。いままでの話を知っている我々には、少しもどかしいところである。我々が今問題にしているのは峨山禅師であるから、話を元に戻すことにする。

帰ってきた峨山に対して、月船はその境涯を認めて、「もうあちこち動き回るのはやめて、ここに居るがよい」と言った。峨山も、もう私の修行は了(おわ)ったのだ、と思った。
ところがである、どうしても気になる人物が一人いる。鵠林(こくりん;白隠禅師の別名のひとつ)である。かつての行脚の途次、東海道の松蔭寺の門前を幾度も通り過ぎたが、鵠林に参見しようとは思わなかった。師・月船の言い付けによるものだったのだろうか。あるいはまた各地でその悪名を耳にしていたのかも知れない。しかしまた絶賛する声もまた無視できないほど大きかったのだろう。

あるとき峨山は師に相談した、「どういう人なのか一度見てこようと思います」 
船「お前、鵠林のところになぞ行ってどうしようというのだ。そんな必要はあるまい。」 
山「それもそうですね。」 
その時はそれで収まった。
一年くらい経ったとき、人から聞くところによると、近々鵠林が江戸の桃林院(現桃林寺)で碧巌録を講ずるという。峨山は思った。
「我、この老に見(まみ)えずんば、実に大丈夫にあらず」と。ここで行かなきゃ男がすたるというのだろう。
船また言う、「やめておけ。」 
峨山は、もう聞く耳を持たぬ。ただちに桃林に行って、鵠林に相見、見解(けんげ)を呈したのである。
いいところでCMの入るテレビのように、あとは次回である。

ところで例によって余談なのだが、月船禅師が三春にいたという十余年の間に、注目すべき人物が参禅に現れている。それは隠山惟琰(いんざんゆいえん)である。十九の年から二六歳まで、ここに留まり修行していたという。この人は後に峨山禅師の法を嗣ぎ、卓洲胡僊 (たくじゅうこせん)と共に、峨山下の二大流派をなし、今日にまで伝わっているのである。(この二流のみが伝わっている)
ところが三春での年代を計算してみると、全く合わないのである。誰もそのことは指摘しないようである。おそらく事実は、三春に留まっていたとしても、月船の次の老師の時であったか、あるいは三春ではなく永田になってからやって来たかのどちらかなのではないだろうか。

(ALOL Archives 2012)

写真は永田・宝林寺(横浜市南区永田)にある東輝庵跡地
宝林寺本堂
山門にて
円覚寺居士林および興禅護国会の最長老であった故・大賀先生(左)と著者

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