サイキック マッサージ

Master’s Touch : Psychic Massage
Ma Sagarpriya 1994
(邦訳 1995)

サイキックマッサージというのは、OSHOの弟子(サニヤシン)であるマ・サガプリヤによって開発された、OSHOワークの精華の一つである。
私自身は、ボディーワークに関係していないし、その方面に詳しいわけでもないが、90年代初頭に、サガプリヤのショートセッションである「スターサファイア」というのに入って、何度か(3度ほどだったと思う)彼女に接する機会を得た。
そこで得ることができた瞑想に対する洞察は、今でも私の瞑想生活の基本になっている。
彼女はとてもラブリーな人だが、反面、ライオンのように激しく妥協のない女性だ。あれほど真正なサニヤシンを私は見たことがない。

「サイキックマッサージ」という本は、この技法を学んで人々に施術を与えようとする生徒たちのために書かれたテキストとしてある。

この本の内容は、多岐にわたっているが、今回一つだけご紹介してみたいのは、彼女が実際にセッションをする場合に、自問することにしているという、チェックリストのことである。以下引用である。

   ※

たとえば、怒りという事実の周辺にあるものを感じ、それについていくつか自問してみれば、どうしてその怒りがまだクライアントのからだに居座っているのか、なにがそれをとどめているのかが、すぐに明白になります。
私がふつう自問することを表にしてみました。表に漏れたものもあるかもしれません。

① クライアントはそれに気付いているか
② クライアントはそれを受け容れているか、それとも拒絶しているか
③ クライアントはそれと同一化しているか
④ クライアントはそれに執着しているか
⑤ そこには心理的な投資があるか
⑥ クライアントはそれに関する自分の責任を認めているか
⑦ それはペアの片方か
⑧ それは過去生からのものか
(引用を終わる)

   ※

①の、「気付いているか」どうか。自らの怒りに気付いていない、というのはおかしな感じもするが、ここでは瞑想的な意味で、それが自己の問題になっているということに自覚があるかどうかということだ。自らの怒りを当然のこととしてそこに疑問がないとしたら、気付いていない、障害になっていることに気付いていない、ということになるだろう。気付いていない場合には、気付のなさが問題なので、それに対処することにして、②以降の質問はしないのだという。このことは③以降でも同様になる。

②の「受け入れているか」というのは、この怒りと闘っているかどうかということだ。戦うことからは解決は得られないという瞑想的な理解があるかどうか、ということでもある。自分には怒りがあるということ、その事実を受け容れているということになる。もっとも、完全に受け入れていたら、それで問題は解決しているので、ここでは、ある程度受け入れる術を心得ているかどうか、ということだろう。

③同一化。怒りそのものに巻き込まれて、それが自分自身の一部だと思うほどに一体視している、ということ。怒りは本当の自分ではない、自分の周囲にある非本質的な現象だと見ることができるかどうか。

④執着。この怒りをどうしても持ち続けたい、手放したくない、と思っているかどうか。対象に怒りをぶつけることを止めたくない、と思っていたら、それは執着だ。

⑤心理的な投資。怒りを持ち続けることで、何かの利益が得られると思っているかどうか。怒ることで得することがあると考えている場合には、止めることができないかもしれない。

⑥責任。怒っているのは、誰かのせいだと思っていないかどうか。怒りを産み出しているのは、自分自身に他ならない、という瞑想的理解をもっているかということだ。
サガプリヤは、一つの例として、次のようなケースを挙げている。
「彼は、自分が怒っているのは母親のせいだと思っている。責任があるのは母親だと思っているのです。ですから彼は、この怒りから自由になれないのです」
この「責任」というのを私は重視している。大抵我々は、何かによって怒りを生ずると、誰かのせいだ、社会のせいだ、はては悪霊のせいだ等々、責任転嫁する。このあり方からは、人は一歩も成長することはできない。
怒りが自らに因るものだ、と理解するほどの人は、よほどに成熟した人である。私は、ここの地点に至った人を瞑想者と呼ぶ。厳しいようだが、それ以前ではまだ、本当の瞑想は始まっていないのだ。

⑦ペア。これは少々難しい。自己の内にある男性性と女性性との間に、バランスと調和が取れているかどうか、ということだ。実際の男女関係・人間関係は、この内的調和あるいは不調和が、端的に現れたものだ、というサガプリヤ独自の発見と理解がここにはある。このあたりについては、彼女の新刊「あなたの内の男と女」に詳しい。

⑧過去生。普通はここまでは調べる必要はないという。どれだけ古くからその問題を引き摺り続けてきたか、いかに根深いものであるかという問題。

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