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長良川 神秘の旅

昔インドに長期滞在していた時(何回目かのインドで30を少し超えた頃だったが)、あるとき奇妙な夢を見た。
さほど大きくはない澄んだ川が流れていて、やや広い河川敷が広がっていた。その開けた空間の草地の中に、四角い白い杭が打ってあって、縦に三字「長」「良」「川」と書かれていた。なんともご丁寧な夢もあったものである。
目が覚めても、それははっきり憶えていた。ところがその当時、私は長良川という川を全く知らなかった。今では、鵜飼いが行われている事で、よく知られていることと思うが。

私はかつて静岡県裾野市の「深良」という地名のところに住んでいたことがあったので、それが夢の中で混交して現れてきたのかとも思った。
インドにいる日本人の仲間何人かに「長良川という川、どこかにある?」と聞いて回った。たまたま愛知県出身の人がいて、ようやく岐阜のあたりを流れている川だということがわかった。
「テレビか何かで目にしていて、無意識のうちに出てきたのでは?」と言う人もいた。そうでないとも言い切れない。

実は、その夢にはまだ続きがあった。
川沿いからすぐに坂を上がっていく道があり、その両側にはまるで江戸時代ででもあるかのような古めかしい商店街が立ち並んでいる。いろいろな物が商われていて、人で混雑している。その坂道の商店街を抜けると、高台に広場のような空間があり、そこは現代のバスターミナルになっていた。
その光景は、私の頭の中にいつまでも残っていたので、帰国してから、あの場所が本当にどこかに実在しているのではないかと思い、当時住んでいた宮城県から探索に出掛けたこともあった。しかし、河川敷は岐阜市のあたりに近いかなという程度で、同じ場所が見つかる事はなかった。

数年前に、東海地方の各地の禅院を経巡ったときにも、性懲りもなく再び探検してみた。今度は少し詳細に。
やはり岐阜市は気になる所である。瑞龍寺専門道場(妙心寺派)に詣でる。伽藍の北側に金華山を控え、風水良好の地である。山のさらに北側はすぐに長良川に接している。
室町時代、悟渓宗頓禅師開山の古刹だが、江戸時代後期、峨山禅師の法を嗣いだ隠山禅師によって再興される。塔頭のひとつが隠山禅師の塔所(墓所)になっていて、訪れる人もなくひっそりと佇んでいる様だった。
このあたりの町並みは何となく懐かしいような気がしないでもない。

長良川沿いを、車で行きつ戻りつして探索してみた。すると河原町という江戸時代のような古い町並み(商店街)があり、ドキリとした。ここは有名な観光地にもなっているようだ。鵜飼い遊覧船の乗り場に面した、観光バスが止まれるような広場もある。夢に見たあの坂道はないけれども、ここがあの場所だと言っても良いくらいに思えた。

次の年、生駒老師(千葉の鹿野山で提唱だけお聞きしたことがある)のおられる美濃・清泰寺をお訪ねしてみた。遷化される数箇月前だったと思う。療養されているに違いないと思ったので、寺内をお尋ねすることはしなかった。後に人から聞いたことによると、この時期はすでに入院中だったらしい。
清泰寺の庭園は、茶人・金森宗和が作庭した庭園が有名である。清泰保育園が隣接していて、老師が園長を兼ねているらしい。子供たちがあのような老師に接したら、どのような種子が植え付けられるものであろうか、計り知れないと思う。

このあと、隣接する土地の守り神である八幡神社を詣で、さらに町全体を見て回った。美濃市もまた、江戸時代以来の古い町並みが保存されている。それは驚くべき景観である。
「うだつが上がらない」と言う言葉があるが、その語源となったのが、この美濃の町の「うだつ」であるそうだ。うだつとは、火災のとき類焼を防ぐ目的で、屋根の両端を一段高くした壁のことであり、後にこれに装飾が加えられて、富の象徴となっていったのである。富のない家は、うだつが上げられないのである。
また美濃は古来から、和紙の産地としても知られている。
美濃はもともと長良川の水運によって栄えた町で、昔は上有知湊(こうずちみなと)という川の湊が築かれ、その灯台跡が今でも残っている。
美濃市は少し高台にあるため、その湊からの坂道の両側には、かつて船問屋や商店が立ち並んでいたという。

清泰寺を訪れ美濃の町を散策したとき、私がインドで見た夢に、ゴトリと音がして決着が付いたような気がした。
人間というのは、不可思議・不可思量の広大無辺な世界を、そうとは知らずに生きているものなのだろう。それは時に、時間・空間の制約を超えて、永遠の今に因果現成している、と言ったら奇妙な物言いになるだろうか。

鵜の川や時空の淵をさまよいぬ

美濃市の歴史的景観
うだつが上がっているところ


(ALOL Archives 2012)

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