mRNAワクチンのゆくえ

仕事で、ある年配の女性のお宅に伺っているのだが、女性は時々、ひどい咳をされている。私はワクチンを何回摂取したのですかと訊いてみた。するとこれまで5回打って、今度6回目になるとのことであった。私は、ワクチンに効き目がないどころか、世界中で(もちろん日本でも)その危険性が問題になってきていることを説明して差し上げた。世の酸いも甘いも経験し尽くした聡明なお方であった。「あなたの言うことを聞いてようやく吹っ切れました。むかしジフテリアに罹ったことがあるのですが、ワクチンを打つ度に、それとそっくりの症状になるのです。6回目の勧めは、きっぱり断ることに決めました」と言われた。私などは、5回も打ってよく生きていられるなと、その生命力に感嘆するが、ま、6回目を避けられただけでも大いに善しとしたい。良かったなと心から思った次第である。

私自身は、初めから一度もワクチンを打っていない。PCR検査なるものも受けたことがない。マスクだけは皆と同じように付けていたが、これとて無用なトラブルを避けるためだけのもので、変に意地を張る必要もあるまいと思ったためであった(初期の頃は、さすがに本気で付けていたが)。ワクチンから逃れられたのは、一匹狼で仕事(ガーデンづくり)をしているためだ。組織の中に属していたら、そうは行かなかったに違いない。世間では、コロナ、そしてワクチンと騒いでいるが、私の辞書にそんな文字は存在していないかのようだ(笑)

私は最近のnoteの中で、ワクチンの危険性を訴えている記事をたくさん紹介してきた。刮目すべき内容のものばかりである。ワクチンの危険性を知れば、文字通り、百害あって一利なしの毒薬、先の老婦人のように、即座に追加摂取を拒否するであろう。知らない人、知らされていない(言論統制されたマスコミがそのようであるから)多くの人々は、有効で良いものだと信じて、打ち続けているのである。と、私は単純にそのように考えていた。しかし世の中には信じがたい考えの人も(そう滅多にはいないはずだと思うが)いるようである。ワクチンが確かに危険であると知りながら、それを(年老いた)家族に打たせようという人がいるのに衝撃を受けた。回りからの同調圧力や、経済的事情など、様々な問題があったにせよ、何とも悲しい話である。ワクチンは、現代の姥捨て山として、都合よく使われ始めたのか。どうせ先の短い老人を、わざわざ後遺症で苦しめて、死期を早めようとしなくてもよいではないか。
以前に述べたように、mRNAワクチンの本質は、(言葉が悪いが)悪意と貪欲に満ちた人類へのテロ行為である、と私は見做している。本当にそうなのか? 独断に陥ってはなるまいが、少なくとも危険(死の危険)が声高に叫ばれている時、そうかもしれない、そうでないかもしれないと、誠実な疑問の余地を残して置くくらいのことは必要であろう。

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