五濁悪世のわれらこそ

五濁悪世のわれらこそ
金剛の信心ばかりにて
ながく生死をすてはてて
自然の浄土にいたるなれ
親鸞「高僧和讃 善導讃」

五濁悪世(ごじょくあくせ)とは、末法の世ということである。
キリスト教的に言えば、黙示録の時代、終末ということであろう。
現代はまさに人類の末期的症状を示している。
この先はもうないかも知れない。瀬戸際に立たされた危機の時代である。

五濁(五つのにごり)は次のように説明されている。
① 劫濁(こうじょく)‥‥時代のにごりで、戦争や疫病や飢饉が多くなること。
② 見濁(けんじょく)‥‥思想が乱れ悪化する
③ 煩悩濁(ぼんのうじょく)‥‥貪り、怒り、猜疑心などが燃えさかる。
④ 衆生濁(しゅじょうじょく)‥‥衆生の心がにぶく、身体が弱く苦しみが多くなる。
⑤ 命濁(みょうじょく)‥‥衆生の寿命がしだいに短くなる、の五つをいいます。
https://jsj.jp/list/list_detail.php?cid=3&id=46

親鸞さんの時代さえ、こんな様子だと嘆かれていたわけである。
甘い!鎌倉時代、この現代の様を見るがよい、こちらが本当の五濁なのだ。

親鸞さんは、そんな時代、信心しかないと言う。
しかしその信心は、金剛の信心なのである。
どうも他力本願の言葉らしからぬ。
金剛とは、ダイヤモンド、最も硬いもののたとえである。
あらゆるものを切断してしまう利剣。
それが金剛の信心ということだろう。
どうもこれは瞑想の本質を突いた言葉のように思われる。

瞑想的・禅的解釈になってしまうが、それは、
自己の心に向かって振り下ろされる一本の金剛剣。
五濁が五濁でありながら、その五濁に甘んじることなく、そこを限界突破してゆく何かがある。
もうダメだと投げ出すのではなく、自らが敷いた限界線を踏み越えて行く。
我々はそんな力を本来持っているのである。
それに気が付くのが瞑想だ。

すると生死(しょうじ)はいつしか乗り超えられ、
自然の浄土(じねんのじょうど)が、心の中に出現している。
その地点から、この五濁を捉え直すならば、五濁は全く違った風景を呈してくるのである。
五濁悪世は即、自然の浄土へと変容する、それは心の眼で見るからである。
親鸞さんは、心の眼を開けと言っておられる。


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