慈悲の三種

夢窓国師(1275-1351)は、「夢窓問答」(足利直義との質疑応答集)において、慈悲について次のように述べている。

慈悲に三種あり
一には衆生縁の慈悲
二には法縁の慈悲
三には無縁の慈悲なり

衆生縁の慈悲と云ふは、実に生死にまよへる衆生ありとみて、これを度して出離せしめんとす。これは小乗の菩薩の慈悲なり。
自身ばかりの出離をもとむる二乗心にはまされりといへども、世間の実有の見に堕して利益の相を存するが故に、真実の慈悲にあらず。維摩経の中に、愛見の大悲とそしれる(謗れる)はこれなり。

可哀想な人々がいるから、これを助けよう、という種類の慈悲だというのである。慈善活動や社会福祉などがそうであろうが、しかしそれ自体は、賞賛こそされても批判されるようなものではないはずである。自己の利益のみを追求している弱肉強食の現代社会(DS的社会)からすれば、雲泥の差がある。とにかくも、困っている人々に手を差し伸べよう、これは慈悲への第一歩となるのに違いない。
しかしそれで人々や社会が本質的に変わるかといえば、必ずしもそうとは言えない。そこには、与える者と与えられるもの、救う者と救われる者との分断がある。与える側は善いことをしていると優越感にひたるであろうが、与えられる側は惨めになるかもしれない。どこかに計算と偽善が見え隠れする。またそれは、偏った感情論や執着に基づいているかもしれない。ま、しかしそれでも良いではないか、不完全ながらも一日一善を行じようとする、その不完全さを自覚するならば、そこに謙虚な美徳が現れるのではなかろうか。

法縁の慈悲と云ふは、縁生の諸法は有情非情みな幻化のごとしと通達して、如玄の大悲をおこし、如幻の法門を説いて、如幻の衆生を済度す。これ則ち大乗の菩薩の慈悲なり。
かようの慈悲の、実有の情をはなれて愛見の大悲にはことなりといへども、猶も如幻の相を存するが故に、これもまた真実の慈悲に非ず。

一切皆空を悟るところから現われ出る慈悲心であろう。
生きとし生けるあらゆる存在を苦しみのない平安に導こう、しかしそのように導いたとしても、そこには導かれる者も、導く者もなく、また実には導くということもないのだ。それを以て真の導きとなす。つまりは無我ということである。もっともピュアなハートがそこにはある。この慈悲には真実の響きがある。どうであろう、もうこれで充分な気もする。
しかし、無我ということが意識されるのは、どこかにまだ我の残滓があるためなのだろう。それさえも手放してしまおう。OSHOがよく言う、Beyond Enlightenment ということだ。我々は、悟りさえも後にしなければならない。

無縁の慈悲と云ふは、仏果に至りて後、本有性徳の慈悲あらはれて、化度の心をおこさざれども、自然に衆生を度すること、月の衆水に影をうつすがごとし。
然らば則ち、法を演ぶるに、説不説のへだてもなく、人を度するに、益無益の相もなし。これを真実の慈悲となづく。
衆生縁・法縁の慈悲にかかはる人は、その慈悲にさへられて、無縁の慈悲を発することあたはず。小慈は大慈のさまたげといへるはこの義なり。
百丈の大智禅師の小功徳小利益をむさぼることなかれ、といましめ給へるもこの意なり。禅門の宗師の人に示す旨趣かくのごとし。

慈悲が自らを、慈悲とも意識しない時、それが本当の慈悲だというのであろう。そのとき人は慈悲そのものであり、それ以外ではあり得ない。本物の師に出会ったことがある人なら、そのことを実感するであろう。
禅マスターは、真の慈悲の人を生み出そうとする。小さな慈悲は却って、大きな慈悲の妨げとなる、これがすぐれた禅者の洞察であった。それゆえに禅の修行は、一般の我々にとっては、訳の分からないところがある。禅の一撃は、慈悲の一撃である。
我々の容易に訳が分かるようなものでは禅ではないのである(笑) 訳がわからないが、禅は真実の香り、慈悲の味わいを、そっと運んでくる、そこに東洋精神の精髄に秘められた美しさがある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?