盤珪禅師と戒律

盤珪禅師の不生禅と言えば、河野太通老師のお得意である。盤珪禅師という人は、余計なことはほとんど語らず、ただ不生ということ一つがわかればそれで良いのだというのが、その説くところのものであった。たまには何か少し変わった説法でもなさってはいかがですか、と人に言われても聞き入れず、来る日も来る日も、不生の仏心の外には語ることがなかった。純金しか商わなかったとみえる。
これにかこつけて、太通老師はこんなことを話されたことがある。京都の花園大学で教鞭をとっておられた頃、神戸のお寺から出張してきて、いつも決まったホテルに滞在しておられたそうだ。そこで出される朝食のメニューがいつも全く同じであり、とうとう嫌になってしまったという。お役所仕事的なホテルであったのだろう。ある時、いつも宿泊しているのだから何か変わった料理はできないのですか、と尋ねられたという。すると、小皿の一品が変わっただけであったと言われた。
どんな美味しい料理でも、毎回同じではどうも・・というお話であったが、何とも可笑しいことを言われるものである。老師ついには、ここの朝食を断って、近くにあった浄土真宗の信徒会館の食堂に行ってみたら、ここがとても美味しくて、メニューも豊富であったので気に入られたのだという。禅も浄土真宗から学ばねばならぬ(笑)。

さて、盤珪禅師の元には、宗派を超えて、様々な修行者が参集してきたものであったらしい。(盤珪さんは白隠さんより少し前の人で、盤珪さんが亡くなった年に、白隠さんは7歳である。)
あるときの大結制(三箇月間の定められた修行期間)では、五十三人もの律宗の僧が参加しに来たという。このうちの二人の僧が禅師に質問をした。
「某(それがし)共は、常に二百五十戒を持(たも)ちまして、これで成仏を遂げませうと存知まするが、これがようござりまするか。又、あしうござりまするか。」

禅師の云わく、
「いかにも、わるい事ぢやござらぬ。よい事でござる。
しかし至極とはいはれませぬ。それは、律を表(おもて)に立てて律宗と云うて、至極のやうに思ふことは、恥しい事でござる。根本、律と申すは、悪比丘の為めに、仏がこしらへられたもので、本式の衲僧底(のうそうてい; 修行者たるもの)は、法式(法に定められた掟)を犯して、律を受けるやうに、しはしませぬわいの。
酒を呑まぬ者には、飲酒戒(おんじゅかい)はいらず、盗みをせぬ者には、偸盗戒(ちゅうとうかい)はいらず、迂詐(うそ)を云はぬ者には、妄語戒はいらぬ如くでござる。
然るに、皆の衆が戒を持(たも)つと云はしやるが、戒をたもつの、破るのといふは、悪比丘(比丘は男僧)の上の事でこそあれ。
我は律宗ぢやというて、律を外に立てて、至極のやうにいふことは、悪比丘の看板を出すやうなもので、よき者を悪しき者に似せて、悪しき者のまねをするやうなものでござる。さすれば、恥しい事ではござらぬか。不生なる仏心でござる所で、不生の仏心で居れば、始めよりして持犯(ぢぼん; 守ること、犯すこと)の沙汰はありはしませぬ。持犯といふも、生じた後の名をいへば、不生の場からは、第二第三、とつと(まったく)末なることで、皆、跡の沙汰でござる。」
この御示しを聞いて、両比丘は、御尤も(ごもっとも)千万至極なり、有難く存じ奉ると云うて、深く深く受合う(うけがう)て退座せらるるなり。
  (以上 盤珪禅師法語・上より)

仏教の戒律についての盤珪禅師の明快な言説である。一刀両断、何とも爽快な語り口である。ことさらに戒律だなどと騒ぎ立てるのは、悪比丘の看板を掲げているようなものだというのである。
不生の仏心で居る者には、要らぬ沙汰だという。これを聞いて律僧は、深く肯がったというのだから、こちらもただならぬ力量の持ち主なのではないだろうか。
しかしここでは、不生の仏心で居るならば、という条件が付いている。不生の仏心で居ることができず、悪癖を捨てる事のできない比丘には、戒律はどうしても必要なものであるらしい。要は、悪癖・悪念を自分のこととして自覚できるかどうかということであろう。ある老師はこんなことを言っておられた、「誰のことと思っておる、あんたのことでっせ」と。

盤珪禅師の論点は明白である。不生の仏心で居れば、そこには戒律など自ずと備わっているのだ、と言うのだろう。
慈悲心に目覚めた人が、殺したくとも殺すことなどできない道理である。枝葉にかかずらっていないで、直に根本のところを掴み取りなさい、否、すでにそうであったことに気付きなさい、と言うのである。このあたりは盤珪さん、そして日本仏教の達したところの極みなのではないだろうか。これには釈尊でさえも感嘆するのではなかろうか。

因みに、二百五十戒(具足戒)というのは、古来インドより、比丘(男性僧侶)がサンガの中で守るべき集団規律のことで、比丘尼(女性僧侶)は三百五十戒あるという(どうも女性の方が悪さをするものであるらしい)。戒の本来の意味は、仏教徒が守るべき自律的内面的規範のことであり、言ってみれば憲法に当り、律は、個々の法律のような意味であるのだが、それらは今では「戒律」として混同して扱われる場合がほとんどである。日本仏教では、良い意味でも悪い意味でも、戒律はあってなきが如きものになってしまっている。具足戒を守っているなどというと、奇人変人のように扱われかねない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?