廓然無聖

ボーディダルマがインドから中国にやって来た時、梁の武帝は尋ねた
「仏法の中で、最も聖なる真理とは何かをお尋ねしたい」
「ご覧なさい、からりと晴れ渡っているばかりで、聖なるものなどというものは何もありませんぞ」
「何もないと言うなら、この朕にこうして対しているのは誰なのであろう」
「(わたしにも)わかりませんな」
問答が噛み合わなかったため、ダルマは立ち去った

   ※

熱心な仏教徒であった(と自認していた)武帝は、インドから高僧がやって来たというのを聞いて、是非にと招き、質問した。
「最も聖なる真理とは何でしょうか」
なかなか見上げた質問ではある
ボーディダルマの答えは、率直で誠実だ
最高のものでもって示した
しかし武帝は、それを受け取れるほど真摯ではなかった
武帝の探求は、いまだ世俗的で政治的、何らかの功徳を求める商取引のようなものでしかなかった

からりと晴れ渡っているばかりで、聖なるものなどというものは何もない
これが、最も聖なる真理そのものの様子だと言うのであろう
こころに何も蓄えないところのすがすがしさ、神聖さ
あらゆる固執や余計なもの(自分自身さえも)を手放してしまった軽やかさ、自由自在さ

その広大な内的スペースこそは
不生で不滅なスペースだ
何と名付けることもできず、どんな階層も立てることはできない
それは存在を内包する「非在」だ

それ故に、それを追い求めることはできないし、
捉えることも、知ることも出来ない
ただ、その出来ないということが知られるのみである
その覚こそが、仏法の真理だ(ということであろう)

   ※

梁武帝、達磨大師に問う、如何なるか是れ聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)
磨云く、廓然無聖(かくねんむしょう)






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?