洞山 VISION 3

両刃(りょうじん)鋒(ほこさき)を交えて避くることを須(もち)いず
好手還(かえ)って火裏(かり)の蓮(れん)に同じ
宛然(えんぜん)として自ずから衝天(しょうてん)の気有り
(洞山五位・兼中至 の頌)

自分の刃と相手の刃がガキッと切っ先を合わせているとき
もはや避けることはせぬ
真の名人のわざは、火中に咲く蓮の花のようなものである
まことに天を衝くような爆発的な気を有している
(拙訳)

両刃交鋒不須避 
好手同火裏蓮
宛然自有衝天気
(原漢文)

   ※

物騒な詩句である。
武の達人同士が真剣で斬り合っている。
刀の刃と刃がぶつかり合って、拮抗し、進むことも退くこともできない。
こんな時どうするかというのである。
生死がかかった緊急事態である。

洞山禅師は仏教者である。
刀を用いて闘う技を想定していたわけではなかろう、そうではない。
この詩に対する解釈は色々あるだろうが、これはわたくしには、自己の心理の上に起る深刻な問題を扱っているのだと思われてならない。

解決しがたい葛藤、苦悩、あれかこれかの迷い、罪悪感、憎悪、悲嘆、絶望、そして現代で言うならば理由なき不安、心のトラウマ、ストレス・・・
これらが襲ってきた時、人は生きて行くのが難しくなる。
これらの原因が、他(他人)からもたらされていると考えるとしたら、それは的外れだ。
これは純粋に自己の問題なのだ、と気が付いた人にとってのみ、この詩は意味を持つのである。

心のネガティビティということにしてみよう。
これらが恐るべき敵として迫って来たとき、どうであろうか。
この洞山禅師の詩は、以前に見た「寒時は寒殺し、熱時は熱殺す」ということの別表現であるように思われる。
(※禅門では必ずしもこのようには解釈しないかもしれないのでご注意を)

心のネガティビティを、決して避けたり無視したり胡麻化したりはせぬ。
悪いものだとも良いものだともジャッジしない。
真正面から受け止め、斬りあう、と言うより立ち向かう。
いままではそれから逃避していたのだ。
その受容、全面的な受容は起こった事がなかった。
全身の気を奮い起こして、そこに突入してみる、
とそれは火の試練となる。
苦しみ、および苦しみを受ける自己は、火の中で燃やし尽くされる。
そこに、これまでに経験したことのない変容が起こる。
業火の嵐を潜り抜け、深い浄化が起こっている。
それが一たび起こるならば、もうそこに恐怖はない。
何も避ける必要はないのである。

ネガティビティを受用し変容させるわざは、ただリラックスすることである。
リラックスするということは、凄まじいエネルギーを生み出す。
リラックスすることは、心身脱落である。
脱落した身心が、地球の中心に向かって加速度的に自由落下してゆくとした時、心身は大きな運動エネルギーを持つことになる。
それが何かに触れたなら、大きなスパークが生じるだろう。
その潜在的エネルギーが、変容をもたらすのである。

両刃鋒を交えて避くることを須いず
好手還って火裏の蓮に同じ
宛然として自ずから衝天の気有り

山岡鉄舟(1836~1888)は、師の滴水禅師から、この句を公案として授けられた。
鉄舟は、熱心な参禅の後、ついにこの意を体得し、これを実際の剣技の上に自由自在に用いることができるようになった。恐怖なき活人の剣。以後、鉄舟の剣は禅に、禅は剣と一如になった。
洞山五位の禅は、山岡鉄舟によって、前人未到の域に進化することになったのである。

われわれ現代人が、この五位の頌を、心の治癒・ヒーリングとして用いることができるならば、この禅は、さらに進化をとげることになるかもしれない。
現代は、こころの火の試練、そんな時代となるのではないか。

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