「即」という名のアポリア 第7.5回

前回はこちら

(※今回は、この雑文の主題とあまり絡んでこない内容ですし、読まないと第8回以降のお話がわからないということもないです。ですから、これを読んでくださっている方で、興味がなければ読まずに飛ばして第8回に行っていただいても大丈夫です)

 

 のっけからこんなことを言って恐縮ですが、今回のテーマについて記すのは私にとっては憂鬱極まることです。というのも、今回お話しすることは、論者によって言うことがだいぶ違っていたりして、俗な言い方をすれば「炎上しやすい」話題だからです。
 それは、輪廻と業をめぐるお話です。今まで述べてきた四諦説や無常やドゥッカや無我や縁起や無記や対機説法といった教えは、人間の日常的な感覚や実感には反しているところがあるけれども、現代人にも理解し納得することが可能であるし、有用な考え方をいろいろと含んでいます(少なくとも私はそう思います)。

 ですが、今回述べる輪廻と業は、仏教に見られる様々な要素のなかでも、現代の多くの日本人にはおそらく理解しがたいと思われる“非合理的な”要素の一つです(念のため言っておくと、私はこの“非合理的な”という言葉を悪い意味で用いているわけではありません。良い意味で用いているわけでもありませんが)。
 先に言っておくと、以前も述べたように私は初期仏教や、あるいはナーガールジュナの思想には惹かれるところがあるけれども仏教徒ではないし、輪廻と業については信じていません。

 前置きはともかく本題に入りましょう。インドには仏教が誕生する以前から輪廻や業と呼ばれる思想が存在しており、仏教でもそれが採用されています。
 まず輪廻は、生き物は死ぬと別の生き物に生まれ変わり、また死んだらまた別の生き物に生まれ変わり、といった具合に再生と再死をえんえんと繰り返すという死生観です。これは知っている方も多いかと思います。

 仏教の場合だと、生き物は地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界・人間界・天上界という六道(6つの世界)をえんえんと生まれ変わり死に変わりして経巡り続けているということになっています(古い経典を見ると、まだ六道という形は成立していなかったりするなど、細かいことを言うといろいろと問題があるのですが、ともあれ最も整備された形が六道輪廻です)。

 六道について超ざっくりと説明しておくと、


地獄界   八熱地獄、八寒地獄、無間地獄などがあり、筆舌に尽くしがたい苦しみを受ける場所とされる。
餓鬼界   常に飢えや渇きに苦しみ悩まされるところ
畜生界   鳥や獣として生まれて弱肉強食に怯え、家畜化されたり殺されたりするところ。
阿修羅界  常に闘争し殺しあいを続ける怒りの場所(ただし仏教内部でも独立した場所ではなく人間界に含む説もあったりと、細かいことを言うといろいろ問題があります)
人間界   人間が住む世界。四苦八苦に悩まされる世界ではあるが、上記の四つの場所よりは余裕があり、輪廻から脱出できるチャンスがある場所でもある。
天上界   神々が住むところ。


 天上界の「神々」というのは誤解を招きやすいので少し説明しておきましょう。仏教で言われる神は、キリスト教やイスラム教のような「この世を創造した全知全能の絶対神」ではありません。仏教に出てくる神々は、人間と同じ生物の一種にすぎません。その神々のことを、天と言います。日本でも梵天とか帝釈天とか言いますよね。日本人にもなじみがあるああいう神様たちは元々はインド仏教に見られた神様で、仏教が日本に輸入されると、それと一緒に入ってきたわけです。

 天はキリスト教やイスラム教のような「全知全能の絶対神」には程遠い生物にすぎませんから、人間と同じく寿命があります(人間よりは長いけど)。天も、死んだらまたどこかに生まれ変わることに変わりはありません。生まれ変わる先は、ひょっとすると地獄界かもしれない。初期仏教では神々というのは大した存在ではないのです。

 輪廻についてはこれくらいにして、業に行きましょう。業というのは、インドの独特の世界観で、「善い行為をすれば将来好ましいことが起き、逆に悪い行為をすれば将来嫌なことが起こる」というものです。「悪いことをすれば、死後に地獄に落ちる」「善行を積めば、死後に天上界のような好ましい境遇に生まれ変わる」といったような考え方です。

 仏教における業というのは、ざっくり言えば、「ある行為と、その行為によって発生する未来の出来事の予約券」のことです。善い行為=善業は(将来好ましい境遇に生まれ変わるといったような)好ましい結果を予約し、悪い行為=悪業は(地獄に落ちるといったような)嫌な結果を予約するわけです。

 いったん行為によって予約券が発生したら、いつか必ず結果となって現れることが確定するということになっています。ただ、その結果が現れるのはいつなのかはわかりません。生前に現れるかもしれないし、死後に地獄に落ちるといった形で現れるかもしれない。

 さて、業と輪廻の二つを組みあわせると、輪廻を引き起こす原動力が業だということになります。業=行為によって人間はえんえんと六道を生まれ変わり死に変わりして経巡り続けるという話になります。

 それではこの業とか行為とかいうのはより具体的に言うとどういうことなんやろかと思ってパーリ経典をひもとくと、アングッタラ・ニカーヤに、「私は、意思を行為と説く。思ってから、身体・言語・意によって行為をなす」(『増支部』6・63)と説かれている箇所があります。漢訳やチベット語訳やサンスクリット語訳でこれに対応する箇所を見ると内容が少しだけ違っていて、意思という行為と、意思に基づく身体行為及び言語行為とに分類していますが、「意思」によって身体が動き、言語表現がなされる=行為が起こるという理解は共通しています。

 ともかくも重要なのは、この経典のなかで釈迦が「意思を行為と説く」と言っていることです。行為の善悪は、言語表現や身体的行動として具体化される「意思」によって決まるのだと言っていることになるわけです。仏教は「意思」を核として行為論を組み立てているのです。ちなみに、身体による行為を身業、言語表現行為を口業、あることをしようと「意思」することを意業と言います。身業・口業・意業をあわせて三業と言います。元をたどれば、「意思」によって業が発生すると考えられているということになります。

 さて、それでは仏教では悪業をやめて善業を積み、将来は地獄界や餓鬼界や畜生界のような悲惨なところではなく、天上界に転生することを最終的に目指しているのかというと、この雑文をここまで読んでくださった方はもうお察しかもしれませんが、そうではありません。

 ここで思い出していただきたいのは、初期仏教では、「一切のつくられたものはドゥッカである」(『ダンマパダ』第277偈より)と説いていることです。天に生まれ変れば人間よりも楽しく生きやすくて寿命も長いかもしれませんが、それでもいつか死ぬことには変わりはないし、ドゥッカという構造から逃れられるわけではもちろんないわけです。

 初期仏教はこう考えるのです。
「人間は善いことをすると、その業の結果として、将来嬉しく好ましいところに生まれ変わる。悪いことをすれば、嫌なところに生まれ変わる。どちらにせよ、業は人間をどこか別の場所に転生させる。しかし、そうやって生まれ変わり死に変わりしていくことがドゥッカである。だから、善業も悪業よりはマシだけど、よくないことに変わりはない。だから、仏教徒はすべての業のパワーを克服して、二度と生まれ変わることのない静寂な状態を目指す」と。

 現代日本人は、「死んでも転生してまた生きられるっていうならそれはいいことじゃないか」と思うかもしれませんが、ドゥッカを説く初期仏教はそう考えません。そうやってえんえんと生まれ変わり死に変わりしていくことがドゥッカ=不満足なのだから、輪廻から脱出して安らぎに至ろうという話になるのです。

「善業も悪業よりはマシだけど、よくないことに変わりはない」という点を理解するためには、仏教の善悪観を押さえておく必要があります。

 初期仏教の目的は、煩悩を断ち切ってこの世を如実に見て取ることができる智慧を身につけることです。そして修行によってその智慧を得ると、善業や悪業をつくらなくなり、業の束縛から逃れることができる、という話になるわけです。そういうわけで、仏教の善悪観は一般的な善悪観とは異なっており、ざっくり言うと次のような形になります。

「世俗的な意味での善行(道に迷っている人に道を教えるとか、困っている人を助けてあげるとか)を積むと、その業の結果として我々は将来、楽なところに生まれる。逆に悪業(殺人とか盗みとかいろいろ)を積めば、嫌なところに生まれる。しかし、善業であれ悪業であれ、えんえんと生まれ変わりを続けること自体がドゥッカの根源である。えんえんと生まれ変わりを続けても、生老病死という枠から逃れることはできない。無限に生まれ変わり続けても、命あるものはいつかは死ぬという、ドゥッカをもたらす根本的な構造から解放されることはない。だから我々は輪廻の原動力である業の影響力から抜け出して、二度と生まれ変わることのない静寂な状態を目指す」

 こういう具合になります。
 ここで注意しなければならないのは、世俗的な意味での低い次元の善と、煩悩を断ち切って解脱を目指す高い次元の善が区別されていることです。

①煩悩を断ち切って解脱するために行う仏道修行(=高次の善)
②世俗的な意味での善行(=低次の善)
③悪行

初期仏教の善は①と②が区別された二重構造になっているわけです。②はもちろん③よりはマシだけど、②を積んで得られる好ましい結果というのはあくまでも世俗的な次元の話であって、来世で楽なところに生まれるとか、石油王みたいな大金持ちに生まれ変わることができるとか、そういうレベルの話です。

 誤解のないように言っておくと、初期仏教は②をしてはいけないと説いているわけではないです。困っている人を助けたりしてはいけないなどとは言っていません。先ほど申し上げたように、善業や悪業を発生させる力は「意思」作用です。「意思」が強く作用するとき、善業や悪業が生じます。ですから、人助けをしても、強い「意思」作用を起こさずにことを行うことができれば問題はないのです。

 困っている人に対して、「ここはひとつ俺が力を貸してやろう。善いことをしてやろう」という強いキモチを持っていると、善業が生じるわけです。そういうことを思わず、見返りも期待せずに、それこそ歩いたり座ったりするのと同じようにして困っている人を助けることができるのであれば、業は発生しないので問題ない。そういう話になります。

 こういう事情がありますから、経典のなかでは在家信者に対して「施論・戒論・生天論」という教えが説かれています。これはどういうものかというと、出家者へ食事や薬や衣といった財物を施し(施)、戒を守って道徳的な生活を送れば(戒)、死後に天上界に転生(生天)できますよ、という教えです。すなわち、先ほどの①~③でいうと②が説かれているわけです。

 初期仏教の目的は、無明や渇愛を滅ぼし、人間の錯覚や幻想や「物語」を解体してこの世を如実に見て取ることができる智慧を身につけて涅槃に至ることですから、そのためには②ではなく①をやらないといけません。①ではなく②を説いている「施論・戒論・生天論」は、初期仏教の本義に反していると思われるかもしれません。ここで思い出していただきたいのは、以前説明した対機説法や応病与薬です。

 なぜ在家信者には「施論・戒論・生天論」が説かれるのかというと、こうなります。

「初期仏教の目的を達成するためには、①を実践しないといけない。けれどもこれは誰もが実践できるというわけではない。そこで①がどうしても無理な在家信者は②=『施論・戒論・生天論』だけでもやりなさい。そうすれば天上界に転生したり、あるいは来世では①を実践することが可能な余裕のある環境に転生できますよ」

 つまり、「施論・戒論・生天論」というのはあくまでも①がどうしてもできない人に対して釈迦が対機説法・応病与薬で説いた教えであり、生天が初期仏教の目標だというわけでは全くないです。目標はあくまでも①を実践して涅槃に至ることです。経典のなかで、釈迦は最初の弟子になった五比丘に対してこう教えています。


 そして、わたしは次のように知見することになった。――わたしの心の解脱は不動である。これが最後の生存であって、いまや再び迷いの生存にはいることはない、と (サンユッタ・ニカーヤ56・11 桜部建訳)


 この言葉からもわかるように、初期仏教においては輪廻というのはいい「もの」でもなんでもなく、脱出すべき「もの」に過ぎないのです。

 輪廻と業というのは以上のような話です。初期仏教には、四諦説や無常やドゥッカや無我や縁起や無記や対機説法といった、現代人にも納得できる有用な思想がいろいろと含まれていると(少なくとも私は)思いますが、輪廻と業については“非合理的”だし受け入れがたいと言う人も多いのではないでしょうか。

「善い行為をすれば将来好ましいことが起き、逆に悪い行為をすれば将来嫌なことが起こる」などと言われても、人の世では善いことをいっぱいやっている立派な人が報われないこともあれば、悪いことばかりしている輩がのうのうと生きているということもあるということは、誰もが経験的に知っていることでしょう。仮に生前に業の果報を受けることがなくても、死後に天上界に転生したり地獄に転生したりするなどと言われても、「なんでそんな見てきたようなことを言えるねん(´・ω・`)」という疑問に思う人も多いでしょう。

 ここで紹介しておきたいのは、アングリマーラという人物をめぐるエピソードです。この人は多くの人を殺めた殺人鬼でしたが、釈迦と出会って出家して修行し、阿羅漢になったと伝えられています。輪廻や業の思想でいくと、大量殺人のような重い悪業を積んでしまったら、たとえ阿羅漢になれるとしても、その前に地獄に落ちるなどの報いを受けなければならないはずなのですが、あっさりと「覚って」しまうのです。

 このアングリマーラが登場する経典のなかで最も古いとされる『テーラーガーター』の記述を見ると非常に単純で、「アングリマーラは解脱すると、悪業の報いを経験することなく死んだ」といったことが記されているだけです。ところが成立がより新しい経典になると、アングリマーラをめぐる記述に「言い訳」がつけ足されていきます。「実はアングリマーラは濡れ衣を着せられて殺人を強要された」だの、「被害者遺族に石を投げつけられるという形で報いを受けた」だの、「(出家後に)難産の妊婦を救った」だのというエピソードが加わっていき、だんだん「言い訳」が大掛かりになっていくのです。

 それでも遺族に石を投げられたり托鉢に行って鉢を壊されたりするだけで、大量殺人にみあうような報いを受けるようなことはありません。アングリマーラのエピソードは輪廻や業の思想と矛盾するものとして意識されていたようで、経典の書き手としてもどうにかして論理的な整合性を確保しようとして弥縫策をとらざるをえなかったのでしょう。

 輪廻や業の思想をめぐっては、無我説との関係が問題になることもあります。えんえんと生まれ変わり死に変わりを続けるというからには、生まれたり死んだりする何か=輪廻する主体が実在する。でも仏教は無我を説いている以上は、そんな何か=輪廻する主体が実在するとは言えない。そうなると輪廻と無我は矛盾するのではないか、という話です。

 以前無我について説明した際に引用した『ミリンダ王の問い』に、ミリンダ王がナーガセーナに対してこの疑問をぶつけている箇所があったりします。「輪廻と無我は矛盾してるんじゃないか」という疑問は紀元前からあったわけです。

 この問題については、後に犢子部という部派が、プドガラ(サンスクリットでプドガラ、パーリ語でプッガラ。中国で漢訳されると補特伽羅と表記されることになります)という輪廻の主体を設定するという苦肉の策をとったりしています。このプドガラというのは、初期ジャイナ教では分子の最小単位、つまりギリシャ哲学の「原子」を意味する言葉でしたが、初期仏教では「ひと」という意味で使われていました。そして時代が下ると、犢子部というプドガラを輪廻の主体と考える部派が現れた、というわけです。

 このプドガラというのは、後世の『倶舎論』という書物のなかに、プドガラ説を批判する文脈で、「幼児から成長し、知識や技術を身につけ、何らかの職業に就き、やがて老いて死んでいくものであり、『この人がこうなったのだ』と同定できる根拠」だと定義されている箇所があります。これでいくと、”変化しつつも同一性を保っている”ような感じです。

 犢子部は、プドガラと五蘊は同じでもないし異なるのでもないと言っています。また、原因や条件によってつくられて一時的に存在するというわけでもなく、因果関係を離れて永遠に不滅な「もの」でもないとも言っています。私にはよく理解できないリクツですが、ともかく犢子部はそう主張しました。

 プドガラ説に対しては仏教内部でも、「プドガラはつまるところアートマンのような『もの』にすぎず、これを認めるなら仏教ではない」という批判や、「プドガラは原因や条件によってつくられて一時的に存在するというわけでもなく、因果関係を離れて永遠に不滅な『もの』でもないというが、そんな『もの』は実在しない単なる観念にすぎない」という批判がなされました。しかしプドガラ説は、正統的な教理とはみなされなかったものの、13世紀初頭にインド仏教が滅亡するまでしぶとく生き残り続けました。

 ついでに言うと、犢子部は部派のなかでも非常に有力な部派の一つで、大きな影響力があったようです。後世になると犢子部から分裂した正量部という部派ができたりするのですが、7世紀に中国からインドに留学した三蔵法師こと玄奘は、『大唐西域記』(玄奘が残した旅行記です)のなかで、インドでは犢子部は部派仏教に属する出家僧の半数を抱えて、最大の勢力を誇っていたと記しています。以上のような事実は、仏教内部でも無我と輪廻は矛盾していると考える人々が少なからずいたことを傍証していると言っていいのではないかと思います。

 一方で、無我と輪廻は矛盾しておらず、むしろ相互補完的な関係にあるとする見方もあります。これは「無我輪廻説」と呼ばれています。「無我輪廻説」は、例えば、以下のような形で無我と輪廻の関係を説明するものです。


 例えば、「太郎」という人間がいるとしましょう。「太郎」というのは、人からそのように呼ばれるところの、変わらない「一人の人間」、つまり「単一の存在」だというふうに思われているかもしれません。しかし、実際にはその「太郎」というのも、流動・変化する現象の様々な要素の集合体であって、ゆえに赤ちゃんの時と三十五歳の時と七十歳の時では、「太郎」の見た目も中身も、まるで異なってきますよね。
「太郎」が主観的に認知している世界も、外側から見た「太郎」も、常に変化を続けています。仏教用語で言えば、「刹那(瞬間)」ごとに流動・転変を続けているというのが、「太郎」と呼ばれている要素の集合体の実情ですね。そのような無常の転変を続けている、ある「認知のまとまり」、現象の諸要素の集合体のことを、かりにまとめてAと呼ぶとする。「太郎」や「キャサリン」や「タマ」など、私たちが「個人・個体」だと捉えているもののことを、ここでAと呼称しているわけです。
 ただ、そのAというのも先ほど申しあげたとおりの現象の諸要素の集合体であって、ゆえに常に変化を続けており、そこに固定的な実体は存在しない(「無我」)。
 私たちの「眼耳鼻舌身意」と「色声香味触法」、つまり六つの感覚器官と六つの対象によって形成されている、「個体」それぞれの認知の世界。その認知の世界というのは、業によって規定されつつ、常に生成消滅を続けています。即ち、変化を続けている。だから無常であり、苦であり、無我であるわけですね。
 そのように変化し続けている無常・苦・無我の現象が、業の作用によって、ずっと継起を続けているという、そのプロセスが輪廻です。ですから、起こっているのはただ業による現象の継起だけなのであって、そこに固定的な実体我が介在する必要というのはないわけです。
 そこに、何か固定的な実体が介在していると考える必要はない。そんなものが現象の世界の中のどこかに存在している、というふうに考えてしまったら、それが無常・苦・無我のプロセスに巻き込まれてしまっている理由がわからないことになるわけです。むしろ、そんなものがないからこそ、ひたすら条件によって現象が継起するというプロセスが、ずっと続くことになるわけですね。
 そのプロセスは「個体」と呼ばれる現象の諸要素の集合体に、「死」が訪れても止まることはない。なぜなら、積み重ねられてきた業の潜勢力が、そこで雲散霧消するということはあり得ませんから。溜めこまれてきた業の潜在的なエネルギーは、また次の「個体」において、結果を発現させずには済まない。ゆえに、「死んだらそれで終わり」(断滅論)というのは、仏教の内在的な論理からすれば、むしろ不自然な考え方になるわけです。 (魚川祐司『だから仏教は面白い!』)

「サンスカーラは<自分>を形成する潜在的力・形成作用です。同一不変の<自分>が種々のサンスカーラを発動するのではなく、種々のサンスカーラによって形成される<自分>が、<瞬間瞬間の輪廻転生>を繰り返しながらせめぎ合っているのです」 (鈴木隆泰『ここにしかない原典最新研究による本当の仏教 第二巻』)


 補足しておくと、サンスカーラというのは、行=「意志」作用です。これでいくと、初期仏教が説く輪廻というのは、魂のような「もの」が実在してそれが転生していくという話ではなく、人の世で「自分」という言葉で仮に呼ばれている実体のない流動的な現象が、継起し変容し続けていくプロセスだということになります。その原動力が業のパワーだということになるわけ
です。そしてそのプロセスは「自分」が死んでも終ることはない。なぜなら、業のパワーによって天に生まれ変わったり地獄に落ちたり、猫や犬に生まれ変わったりするからだ。このように仏教は説いているのだという解釈です。


 さて、輪廻には、差別と結びついてきた暗い歴史があるという問題もあります。「悲惨な境遇に喘ぐ人々や被差別者がこの世に存在するのは、彼らが前世で悪業を積んだからだ」という「物語」をでっちあげることで、悪しき現状や差別を正当化するということが行われてきたのです。経典によっては、こんなことが書いてあるものもあります。


 弟子たちよ、悪い行き先には法に適う行いがなく、正しい行ないがなく、善を積むことがなく、徳を積むことがないのです。弟子たちよ、そこには足の引っ張り合いがあり、弱肉強食があるのです。
 弟子たちよ、そのようにして、その愚か者が久しい年月の後に人という境涯にやって来ますが、そのときには、卑しい家――チャンダーラの家、猟師の家、竹籠作りの家、車作りの家、あるいは屠殺者の家――に生まれ変わります。そういった貧しく、飲食に事欠く、生活の苦しい家に生まれ変わりますが、そこでは衣食を得ることが難しいのです。それで、かれは容色悪く、容貌醜く、体躯貧弱で、病気がちです。目がつぶれていたり、手が曲がっていたり、足をひきずっていたり、半身不随であったりします。また、食物や飲み物や衣類や乗り物や、花環や香料や塗油や、寝具や家屋や灯明も手に入れることができないのです。かれは悪しき行ないをし、悪しきことばをしゃべり、悪しき考えを抱いてから、死んで肉体が滅んだ後、幸なきところ、悪い行き先、落ち行く先である、地獄に生まれます」 (マッジマ・ニカーヤ129 中村元監修『原始仏典 第七巻 中部経典Ⅳ』)


 補足しておくと、ここに出てくる「チャンダーラ」というのは被差別者集団を指します。チャンダーラはインドの非アーリア系の先住民を指すのではないかという説もあります。

 現代においても、石井光太のノンフィクション作品である『物乞う仏陀』にこんなエピソードがあります。

 そのスリランカ人の女性は10代の半ばに、同じ年頃の男性と出会って恋に落ち、結婚を誓い合いました。しかしスリランカにはカースト制度があり、彼女は低カーストで、相手の男性は中流のカーストでした。双方の両親は結婚に反対しましたが、彼女はなんとか結婚を許してもらおうと涙を流して頼んだり、怒鳴りあいになることもあったそうです。しかし、許されることはありませんでした。

 悩みに悩んだ二人は駆け落ちを決断。山奥の小さな町にたどり着いた二人の生活は貧しく、まともな仕事を手に入れることもできませんでしたが、車やバスの洗浄をしてわずかばかりの小銭を稼いで家庭を築き上げようとし、いつしか女の子も生まれました。

 しかし、仕合せは長くは続きませんでした。何年たっても長女は大きくならず、言葉も発しなければ、歩く気配すらなかったのです。やがて次女がすぐに姉の背丈を上回ってしまいます。次女が両親の名前を呼び、歩けるようになっても、長女は赤子のように這いまわって泣き続けるだけでした。そして長女を医者に連れて行った両親は、治療法のない病気だからあきらめろと告げられてしまうのです。生活は貧しく、共働きをして生きていくのがやっとの状態なのに、母親が長女の世話をすることになると、生活が成り立たなくなるのは明白でした。

 夫婦は、長らく連絡を絶っていた実家に謝罪し、故郷へ帰るから子供を育てるのを手伝ってほしいと言いましたが、許してはもらえませんでした。実家は、夫婦の駆け落ちを悪業だと考え、その報いによって障碍児が生まれたのだと考えたのです。すぐに一家は崩壊への道を辿ることになりました。母親は働けなくなり、時には長女を片道4時間かかる病院に連れていかなければならなくなります。交通費だけで一週間分の収入が消えてしまうのでした。父親がどれだけ仕事をしても暮らしが楽になることはありませんでした。

 そして長女が11歳になった年に、父親が心臓発作で帰らぬ人になってしまいます。過労のせいだったのかもしれません。悲嘆にくれた母親は、もう一度実家に謝罪し、助けを求める手紙を書きましたが、返事はありませんでした。

 いつしか母親もすべては業によるものだと思うようになりました。駆け落ちしたせいで、障碍児が生まれ、夫が死に、実家から勘当されたのだと考えるようになってしまったのです。彼女は著者に対して言います。「無理よ。すべては業だもの」と。著者はこう記しています。


 業……仏教における業とは一体何なのだろうか。
 母親にとって、業は夢みることをあきらめる口実になっている。少なくとも今の彼女はそれに縛られているために何を目指しても実現するはずがないと思い込んでいる。家庭をよくしたいという願いも、子供への希望も、貧困から脱出しようとする意志もない。
 一方、実家は、娘が駆け落ちしたことへの怒りをひきずり、障害児の出産と夫の死を業のせいにしている。怒りを正当化し、現実に背を向けているのだ。
 もし、この世に仏陀がいたら尋ねたい。
 あなたが説いた業とは、希望を捨て、怒りを正当化するためのものなのですか、と。
 しかし、もうこの世に仏陀はいない。


 もう一つ、日本の例をあげましょう。曹洞宗の僧侶である南直哉は、評論家の宮崎哲弥と仏教学者の望月海慧との鼎談でこう言っています。


南 輪廻説の必要性の話に戻りますけど、以前元ハンセン病の人のところに行ったとき、どうしても一つ確かめたいことがあったんです。それは、「お坊さんが来て、あなたがこういう病になったのは、前世の悪業の因縁だみたいな話を本当にされたことがありますか?」と、どうしても聞いて確かめたかった。本では読んだことがある。ハンセン病患者あるいは被差別部落の人に向かって、そういう説教を仏教のお坊さんがやっていたという話を聞いたこともあったけど、実際にそれを聞いた人にあったことがなかったから、行ったときに「そういう話を聞いたことがありますか」と言ったら、「ある」という答えでした。その通りのことを聞いたって。
宮崎 それはどこの宗派の僧侶ですか?
南 いや、それはおそらく全部、あそこに説教に行った仏教のお坊さんのほとんどは言ったんだそうです。あえて何宗とは言わない。
宮崎 いつの時代のことですか、それ。年代を推定すると?
南 七十代の人が十代か二十代の頃じゃないですかね。五十年ぐらい前かな。
宮崎 戦後だ! 一九六〇年代か、七十年代の初頭ですね。怖ろしい。
南 そういう話を平然としていた時代がやっぱりあるんです。もっと遡れば、もっと露骨な話をしていたに違いないです。はっきり言えば、ある人間がある境遇に置かれていることを諦めさせる論理としては、強烈に作用する。自分が苦境を納得するだけじゃなくて、他人がある人の苦境をそれは仕方がないことなんだと言って、現状を改善したり、抵抗しようとすることを否定する論理として、輪廻を持ち出すということが実際にあったんですよ。(サンガ『サンガジャパンVol.21』)


 このように輪廻と業の思想はアングリマーラの事例のような教理的な矛盾の問題もありますし、苦境や差別を正当化する「物語」として機能し、大いに害毒をもたらしてきたことも否定しがたいように思います。そこで、ここで考えてみたいのは、業や輪廻といった現代日本人には受け入れがたい世界観を丸ごと前提にしなければ仏教を実践することはできないのかということです。まず、このような指摘があります。


 つまり、ゴータマ・ブッダの仏教においては、解脱・涅槃も輪廻転生の世界観を前提とした、再生の非存在として語られるということだが、これも筋道立てて考えれば当然のことだ。第二章で確認したような生老病死などの「八苦」は、全て人間が生きているうちに経験することなのだから、輪廻転生が存在せず、この一生で何もかもが終わるのであれば、全ては死が解決するということになってしまうからである。要するに、業と輪廻の世界観を前提としないのであれば、死ねば全てが終わりになる以上、生に伴う必然的な苦から解脱するための最高のソリューションは自殺だということになり、労働と生殖を放棄して、厳しい修行をする必要など全くなくなってしまうということだ。 (魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』)


 確かに、初期仏教では原因や条件によって生じた「もの」はすべてドゥッカであると説くのだから、断見(死んだら無になるという見解。仏教では、自我は不滅であるとする常見も、死んだら無になるという断見も誤った見解だとされる)の立場をとるなら、さっさと自殺した方がええやないかという話になりかねません。
 そこで、仏教が輪廻を前提とすることに対して違和感を表明している仏教者の見解も見てみましょう。先ほど引用した南直哉・宮崎哲弥・望月海慧の鼎談で、宮崎は次のように語っています。ここで重要なのは、彼は断見に立脚していないということです。


 私がかつて輪廻説に批判的だった理由をはっきりさせておきますね。まず、私はローカーヤタ(順世外道)みたいな唯物論をまったく認めていないし、近代の科学主義に靡いて輪廻を非合理的な迷信と捉えたのでもありません。断滅論(断見)を唱えたわけでも、虚無論に陥っていたわけでもない。ここが多くの輪廻に肯定的な人々にはどうしても腑に落ちないみたいなんです。彼らは、仏教輪廻説を批判するのは唯物論者か、科学主義者か、断滅論者か、虚無主義者に違いないと思い込んでいる。そして、これらの立場に照準した反批判が提出されるわけですが、少なくとも私にとってはすべて的外れです。
 では何故“輪廻を前提とすること”に違和感が残るのか。それは輪廻という前提措置が、自分の根本的で切実な苦の在り様に対応していないから。私にとっては、死によってすべてが無に帰してしまう断滅の可能性、あるいはそれを生々しく実感してしまう断見への囚われ、その迷妄こそが苦の原因なのです。断滅への怖れ、不安、戦慄が、引き裂かれる生身に走る激痛よりも遥かに辛く、痛く感じるからこそ、そのリアリティを完膚なきまでに滅却しなければ心の平安を得ることができない。そうしなければ、この苦を抜き去ることができず、解放に向かわない。すなわち断滅論は終局的に否定されるべき対象なんです。しかしながら、その迷妄がどうしようもなくある、無知が造出した虚妄として存在する、ということが前提に措かれていなければ、それから発する苦も存在しないことになり、断滅に対する“実存の苦しみ”は仏教によっては解消されない、となってしまいます。
 この理路は「もし輪廻が前提になっていなければ生死の苦もなく、それからの解脱もないことになる」と説く輪廻肯定論の論理構造とまったく同型です。そして私は、仏教が生死輪廻の“苦”には対処できても、断滅の苦には対処できないとは絶対に思わない。注目すべきは、輪廻由来だろうが、断滅由来だろうが、ブッダの教え示した迷妄から解放される方途は同一、という点です。輪廻に対する怖れや苦も、断滅に対する怖れや苦も、どちらも無明、つまり盲目的な生存欲が原因ですから、それらを解体する方法は一つなのです。
(中略)
「断滅への苦」は根本煩悩、すなわち、盲目的な生存欲望に発しますから、それは伝統教理における「輪廻の発生因や駆動因」の機制と表裏一体になっているといえます。(中略)断滅は死後“永遠の無”に閉ざされることを意味しますが、同時に常住や「無始無終の輪廻」もまた“永遠の有”に閉ざされることに他ならないから。私にとって、輪廻と断滅はどちらも無価値であり、苦の原因であり、最終的に破却されるべき生への執着によって歪められた世界像に過ぎない。にも拘わらず、無明に突き動かされて、その「現実」を却けることがなかなか難しい……。(サンガ『サンガジャパンVol.21』)


 つまりこういうことでしょう。

①仏教者で輪廻を信じる者にとっては、輪廻し続けることはドゥッカであるから、そこから脱出することが目標となる。彼らは、輪廻という「物語」や、常見という「物語」を滅ぼして、「わたしの心の解脱は不動である。これが最後の生存であって、いまや再び迷いの生存にはいることはない」という涅槃に至ることを目指す。

②では輪廻を前提としない者は、仏教によっては己の生死をめぐる実存苦を解決できないかというとそうではない。まず、仏教では、「私」は死んだら無になってしまうという断見も、常見と同じく誤った見解である。最初から我などという「もの」がない以上は、「今は『自分』という『もの』が存在しているが、死ぬとそれが消えて無になってしまう」という考え方は「物語」にすぎないからだ。だが、常見も断見も誤りであるということを頭で理解しただけでは、「私」は死んだら無になるという「死の恐怖」は消えはしない。だから、輪廻を信じる仏教者が輪廻という「物語」から脱出するために仏教を実践するように、輪廻を前提としない仏教者にも断見という「物語」から脱出するために仏教を実践するという経路がある。「輪廻に対する怖れや苦も、断滅に対する怖れや苦も、どちらも無明、つまり盲目的な生存欲が原因」だから、「輪廻由来だろうが、断滅由来だろうが、ブッダの教え示した迷妄から解放される方途は同一」である。


 つくられた「もの」はすべてドゥッカであるという仏教の立場からすれば、断見に立つのであれば自殺した方が話が早いという話になってしまいますが、輪廻を前提としない仏教者も、断見を認めてはいないわけです。一方は輪廻によって「自分」という言葉で呼ばれる現象がえんえんと続いていくという迷妄から脱出することを目指し、もう一方は、「自分」がいつか消えてなくなるという迷妄から脱出することを目指す。両者とも、常見や断見という「物語」を生み出す根本的な原因である無明や渇愛を滅ぼそうとしていることに変わりはないわけです。そうなるとやることは同じだという話になる。そういうわけです。

この問題に関連して、次のような指摘があります。


 もとより仏教が究極的には輪廻の超克を目指しているものであり、またゴータマ・ブッダは「現法涅槃(diṭṭhadhammanibbāna)」、即ち、いま・この生において涅槃に達することを説いてもいる以上、とくに輪廻思想を信じたり実感したりしていなくても、仏教の実践を行い、それを自らの生のために活かすことは可能である。
 また、解脱を証得するためにゴータマ・ブッダが説いたのは、いま・ここの身・受・心・法の四念処を徹底的に観察し如実知見することであって、そうすることで、五蘊を厭離し離貪して解脱に達するというのが彼の教説の筋道だから、そこで輪廻に余計なこだわりをもつ必要はない、という考え方も間違ってはいない。
(中略)
 したがって、輪廻思想に馴染みのない一般の現代日本人が仏教を実践する場合、「輪廻なんてとても信じられない」と思うのであれば、それを受け入れなくても、とくに支障はないであろう。また、思想や実践を教える立場の人たちからしてみれば、そこにはあまりふれずに済ませておいたほうが、聞き手や読者に余計な混乱を与えずに済むという判断も、場合によっては正しいと思う。
 あるいは、「ゴータマ・ブッダはたしかに輪廻を説いたけれども、自分自身はそれを全く信じない。だが、仏説には他に有益な部分もたくさんあるので、その点については積極的に受け入れる」という立場も、十分にあり得るだろう。 (魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』)


「もとより仏教が究極的には涅槃の超克を目指している」以上、輪廻も最終的には解体されるべき「もの」です。そうである以上は、輪廻が信じられなくても仏教を実践するうえでは「とくに支障はない」というわけです。ついでに言うと、私自身も仏教徒ではありませんが、大筋で「ゴータマ・ブッダはたしかに輪廻を説いたけれども、自分自身はそれを全く信じない。だが、仏説には他に有益な部分もたくさんあるので、その点については積極的に受け入れる」という立場です。

 そういうわけで、長くなりましたが、私は仏教に何らかの形でコミットしようという人も、輪廻はスルーしてもいいのではないかと思っています。業と輪廻の話題は何かと可燃性が強いしあまり話したくはなかったのですが、一言もないというのも問題だろうと思ったので、やむなく触れることにしました。今回はこれくらいにしましょう。(続く)

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