僕の大好きなやさしいママ

私の母親は名誉と地位を自ら築き上げた成り上がりのバリキャリで、その間に娘を2人産んだ強い女性だった。
仕事上でいつも母親は必要とされていて、深夜呼び出しの電話が鳴ることなんて日常茶飯事。深夜に母親がベッドから出ていく、ぬくもりが消える寂しさは今でも忘れることができない。

それでも私は母親が大好きだった。

中学1年の時、私はリストカットを覚えた。少しでも嫌なことがあるとハサミや剃刀で手首を刻んだ。母親には手首を切っても死ねないよ、と言われた。死にたい訳でもない私はその自傷行為を辞めれるわけもなかった。

同時期に、6つ歳の離れた姉が面白いぐらいにグレた。両親、主に母親がその世話に四六時中仕事と両立して走り回るようになった。
中学生だった私は大きい一軒家に置き去り。夜中だろうと関係もなく1人だった。その頃には常に剃刀を持ち歩いて、悲しい嫌だと思う度に場所がどこであろうと手首を切っていた。一度校長室に引きずり込まれたけど、親の迎え等来れる訳もなく興奮した私が花瓶を割って暴れちらしただけだった。
私も母親の気を引きたくて精一杯グレてみたりもした。当時の男と子作りに励んだり、酒や煙草も無理して口にした。法に触れるとも知らずに犯罪にも手を染めた。暴力を振るうことも毎日だった。14歳で出来る限りの思いつくワルイコトをした。
なのに母親は見向きもしなかった。

それでも私は母親が大好きだった。

会話は当時ほぼなかったと思う。姉と仕事で頭がいっぱいいっぱい、更年期も重なっていたであろう母親は家にいるとビール缶を何本もあけ、ソファに横になりテレビをみていた。笑うでも泣くでもなく、一点を見つめた無表情で。
問いかけても返事はなかったように思う。おはようもおやすみも、当然のように。

それでも私は母親が大好きだった。

私が16歳の時、家を出ていた姉が突然実家に戻ってきた。いく場所もなくこれからは一緒に実家に住むのだと言った。
当時私はひとりっ子を名乗るほど姉が嫌いだったし、いつ見ても視点の定まらない何を話しているのかすら解らない、久しぶりに帰ってきたと思ったら玄関で泡を吹いて倒れている様な女が心の底から嫌いだった。
そんな女と一軒家で暮らす?拒食症になりつつ私にとどめを刺すほど、そんな生活は数日で限界を迎えた。
行く宛もない金もない、それでもこんな女がいるよりはましだとお気に入りのギンガムチェックのキャリーバックに最低限の荷物を詰めた。生きて行けるのかすら解らない、最早このまま死んでもいいと思った。
荷物を詰め終えた私は真夜中家を出た。誰に何も言わず。電車などとうに走っていない時間だった。それでも家にいてあの女と同じ空気を吸うことが耐え難かった。

ガラガラとキャリーバックを引き車庫を出た頃、名前を呼ばれた。何度か無視をしたまま歩き続けた。その声は泣き叫ぶ悲鳴に変わった。
寝間着姿の母親だった。
私のキャリーバックとズタズタに切り刻まれた手首を掴み、「あなたがいなくなったらママはどうしたらいいの」とぐしゃぐしゃの顔で言われた。
いやでもあんな女を家に置くんでしょう?と言えずに返答に詰まった私に「ママはあなたがいなかったら生きていけない」と抱き締められ、それまで大きく見えていた母親は震えながら泣きじゃくっていた。涙は不思議と出なかったけど抱きしめ返した母親は、小さくて脆く壊れてしまいそうな程やせ細っていた。それまで気付くことのなかった母親の弱い一面、脆い部分、初めてそんな母親に触れれた気がした。
そのまま母親とビジネスホテルに何泊かした。実家に帰れない私に遠い場所にアパートを借りてくれた。数カ月友達や母親と住んだそのアパートは本当に天国の様にあたたかく、幸せしか存在しない場所だった。

そんなことを、母親が作ってくれた炊き込みご飯を食べながらふと思い出した。
意味もなく深酒してる夜、母親が刻んでくれたたくさんの野菜を母親特性のにんにく醤油で味付けた野菜炒めをフライパンの上で転がしながら心底思う。

私は母親が大好きだ。
マザコン上等だ。

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