『100日間生きたワニ』を面白くなかったと思った人(私)が面白いと思った人の感想を読む話

みなさん100ワニみましたか?

僕はみました。感想は下の記事で書いています。面白くなかったです。

さて、公開初日に悪評・批判ラッシュが相次いだ後、『100ワニ』の映画面白かったよという感想ツイートやnoteがポツポツと出てくるようになりました。

私は面白くなかったので面白いと思った人がどのような観点から面白いと思ったのか、私の観点とどのように違うのかを見たいと思い今回のエントリを書くことにしました。

今回面白かったよ派として取り上げるのはこちらの方のエントリです。

品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)さんです。(以下恐山さんと略させていただきます。)オモコロというウェブサイトで記事を投稿されていたり、オモコロチャンネルというyoutubeチャンネルに出演されている方です。

エンターテイメント分野に携わっているこの方の感想なら賞賛意見として明瞭で批判的な自分との違いがはっきりとわかるのではないかなあと思い取り上げさせていただきました。

恐山さんのエントリではいわゆる「100ワニに対する悪評エントリ」によく出てくる批判点と比較して自分の感想を述べるというスタイルで感想を記述していらっしゃいますので、本エントリでもその感想と比較して自分はどう感じていたかという観点で記述させていただきます。


以下映画のネタバレを含みます。見たくない方はここでブラウザバックをしてください。




①100ワニは「紙芝居」なのか

Twitterで感想を見ていると「紙芝居」という表現がたびたび目についた。 これは個人的にはあまりしっくりこない。
たしかに動きの少ない映画ではあるが、動くべきところはちゃんと動いて  いた印象。『鷹の爪団』のアニメみたいな感じで、キャラが平行にスーと  動くとか、そういう内容ではない。

恐山さんの言う通り『鷹の爪団』レベルには動いていたとは思います。しかし批判派が思っていることは、「『鷹の爪団』レベルじゃだめだろ」ということだと思います。(少なくとも私はそう思います。)

確かに『100ワニ』の作風からして『エヴァ』の機体を描く時のような精微さや『鬼滅』のバトルシーンのようなヌルヌルとしたアクションは不必要です。しかし『100ワニ』の動きは「『100ワニ』の映画を見に来た多くの人」を満足させるほどよかったとは到底思いません。

『鷹の爪団』の映画の動きが『100ワニ』レベルでも文句を言われることがないのはそもそも『鷹の爪団』自体が低予算であることをある種売りにしているからです。(『鷹の爪団』の映画では予算の残量を表す「バジェットゲージ」があり、予算を多く使うようなCGがでると他のキャラの作画が悪くなるという演出などを使い、低予算であることを逆手にとって笑いを生み出しています。)『鷹の爪団』は見る人が低予算であることを了解してみるから動きが悪くても文句を言われないと思うのです。

それに対し『100ワニ』は低予算であることを作品中外で売りにしていたのは見たことがありません。(そのような記述、演出があればご指摘ください)

であれば観客は『鷹の爪団』より動きがいいことを期待するのはもっともであり、『鷹の爪団』レベルの動きであれば紙芝居だと感じてしまう(悪い・不十分と感じる)ことは私の中では自然です。

(7/12追記)以下引用部の読み方に関して、私は上記で『100ワニ』が『鷹の爪団』と同等のレベルであるという読み方をして感想を述べていますが、『鷹の爪団』を動いていないアニメの例示としてあげていて、『鷹の爪団』よりは動いているという主張をしているのではないかというご指摘をいただきました。確かにそちらの読み方が正しそうです。(本人からのご指摘でない以上真意はわかりませんが)


『鷹の爪団』のアニメみたいな感じで、キャラが平行にスーと 動くとか、そういう内容ではない。

私の主張をみればわかる通り、私は『鷹の爪団』のアニメをそれなりに動くアニメだという感想を持っています。しかしそれはあくまで低予算アニメであることを前面に押し出し、なおかつそれを逆に利用して表現しているにしてはそれなりに動く、という感想であって、低予算であることを押し出していない『100ワニ』のアニメーションとしてみれば値段相応のものではなかったと思います。恐山さんは『100ワニ』のアニメは『鷹の爪団』より動くという感想をこの読み方では持っているということになりますが、これは基準点、評価点の違いなのでなんとも言えないですね。私は最序盤のひよこが道路に飛び出す動きとか見ても『鷹の爪団』より動くとはあんまり思えなかったです。(追記終わり)

②100ワニは「テンポが悪い」のか

「とにかく間延びしていて見ていてかったるい」という趣旨の批判も多く目にした。これについては、自分はそう思わないが、そう思う人もいるだろうな、と感じた。
確かに作品全体を通して「間」が多用されている。ただ、それは尺稼ぎの無意味な間ではなく、沈黙を通してキャラクターの心情を伝えるという演出意図を感じるものだった。これは邦画などでは頻出の技法なので、個人的には全く違和感なく観られた。

こちらは間延びしているという意見も想定できるというように書かれており、私としても「間」がキャラクターの心情を伝えるのに役立っていたところはあったと思うので大きな意見の違いはありません。

ただ私(多くの批判者も同意見だと信じたい)が『100ワニ』の「間」で気になったのは、作品内で本当に必要なのか?という間が多く存在したように見受けられたことです。

例えば冒頭のワニがネズミのお見舞いに行くシーン。ここにある間は心情を伝えるいい「間」だと感じます。この間を埋めようとワニがするギャグは後の伏線にもなり、いい「間」の取り方だと思いました。

またワニがバイトを辞めるシーンの「間」もいいと思います。辞める理由を詳しく聞けないネズミと言えないワニの間の沈黙は観客からしても共感できるところです。

しかしゲームの間、退院時のラーメンの間など本当にこの「間」で伝えたいことがあるのか?という間が多すぎることが間に対する多くの批判を生んでいる原因だと思います。間があるのがダメなのではなく間が多すぎることが批判の対象になっているように感じます。これによって物語が全体的にだらけてしまい、本来有用な効果を生むはずだった上記の「いい間」までもが潰されているように見受けられます。

また全体的に「間」が多いことでゲームのコントローラーをめぐるワニとネズミの「死」に対する価値観の違いとちょっとしたすれ違いなど深堀すべき要素を入れる時間がなくなってしまい、結果としてさらに前半部がスカスカ(退屈)な印象を観客に与えているのではないかと思います。

③100ワニは「作画崩壊」なのか

この評判に関しては意味がわからない。原作の絵柄に忠実なキャラクターデザインだったし、絵が破綻しているようなところもなかった(と思う)。

これは完全に恐山さんと同意見で、「作画崩壊」はしていないと私も思います。この主張でよく例として挙げられるのはネズミの頭部の画像ですが、あれは私も違和感を感じはしますが「作画崩壊」は言い過ぎだと思います。

④100ワニは「オリキャラがウザい」のか

ただそれは完全に作劇上意図された造形なので、作品そのもののネガティブ評価には直接結びつかないと思う。人によってはウザすぎて観てられないと思うのかもしれないけど。個人的には、カエルが出てきたことで深みが増したと思う。

私の感想エントリでも書きましたが、カエルというキャラクターは非常に不快です。ワニの死から立ち直れないワニの友達たちにやや礼節を欠いた態度でコミュニケーションを取りにきます。ワニが死んで悲しい友達に(少なからず)共感する観客にとって、このキャラクターが不快なのは賞賛派・批判派関係なくほとんどの人にとって同じだと思います。

ただ私(批判者)はカエルの存在が不快だから『100ワニ』を批判しているのではありません。カエルという存在が作品終盤に見せる態度に共感できない(できる演出が整っていない)から批判しているのです。

カエルがうざい態度をとるのには理由があります。(ネタバレになるので詳しくは書きません。)それを知ったネズミがカエルと本気でコミュニケーションをとることで、ネズミはワニの死から立ち直り、また集まろうよとワニの友達たちに持ちかけるのです。

私の見解ではこのカエルがうざい態度をとるようになった理由があまりに突然、しかも補助描写も薄く展開されたことがカエルに絡めた作品批判を生み出している原因のように思われるのです。

ネタバレをできるだけ避けるため別の例を用いて説明するとしたら、以下のような感じです。

彼女に苛烈なDVしていた男(作品のそれなりに長い時間を使ってDVの苛烈さを描写した)が急に泣き出して、「昔自分は母親にDVを受けており、それが正しい愛情表現だと思ってやってしまっていた」と語り、特にその時の回想シーンが入るでもなく、次のシーンでは彼女が男のことを許していた。

こんな描写されても男に同情心なんて湧きません。観客は苛烈なDV描写を見せられて男に対するヘイトがたまっているわけですから、少なくとも彼女にしたのと同等の苛烈なDVを受ける回想シーンや、それを受けた男のかわいそうな姿の描写など男のヘイトをやわらげ、男に少しでも共感できるような背景を作る必要があります。この男が最終的に悪として断罪されるのではなく幸せになるならなおさらです。

本作のカエルにそのような回想は皆無です。さんざんヘイトを貯めておいて回想もない、回想を補助する描写もなしでカエルに共感する、心が離れてしまっているワニの友達たちを繋ぐ橋としての役割を認める、というのはいささか無理があるように思われます。

カエルがうざいのは作品の演出上意図されたものであることくらい批判派はわかっていると思います。(………わかってるよね?そう信じたいです。)ワニの友達を死から立ち直せるためには新しいイベントかキャラクターは必須であり、カエルがない本作品はカレー粉のないカレーに等しいと思います。深みが増すみたいな話ではなく、この話にカエルは必須です。

であればなぜカエルというキャラクターの心情や背景をもっと精微に、丁寧に(やや単純な表現をするなら、時間を使って)表現できなかったのか。予算がないみたいな背景があったとしても、ここに力を使わなければ後の描写はとても共感できるものではありません。カレー粉を粗末に使うカレーがおいしいとは私は思いません。

⑤100ワニは「即席の手抜き映画」なのか

テキトーに映像化して売り抜けようと思ったら、もっといくらでも雑に作れる。限られた予算と納期の中で最大限誠実に作られた映画だと思う。

多分ここに関しては私と恐山さんの中でズレがあるのかなと感じました。

私は見る映画の予算とか納期とか知ったこっちゃありません。私が重要視するのは、払ったお金ぶんの価値がこの映画にあるかです。

『鬼滅』も『100ワニ』も同じ値段で見られるのですから(『鬼滅』を見ていないので、もし『鬼滅』を見るのに3800円とかかかっていたら申し訳ありません)、観客からすれば同じ面白さ(少なくとも、払った金額で見られる映画の平均程度の面白さ)を期待するのは当然です。映画の予算とか納期なんて話は観客からしたら知らんがなという話です。私は(そしておそらく多くの批判派のみなさんは)払ったぶんだけの面白さが『100ワニ』にないから批判しているのです。1900円の価値が多くの人にとってなければ、それは「即席の手抜き映画」と批判されてもしょうがないのかなと思います。私は即席とは思いませんが、カエルの描写は手抜きだと思います。

雑多なまとめ(感情のなぐり書き)

賞賛派の方が映画予約で遊んだり針小棒大な批判レビューを書いたりあまつさえ見ていないのに批判する人を見て批判派が嫌になるのもわかります。賞賛派の方のレビューには大体のそのことが触れられています。過激な批判派に対して「批判するためにみるなよ」と批判する方もいらっしゃいます。

しかしそもそもこの作品をバイアスなしで見るのはほぼ不可能だと思います。100ワニを見る人は100ワニ周りの騒動を知っていて見るはずです。賞賛派だって映画予約で遊ぶ批判派に対する嫌悪感から賞賛方向にバイアスがかかっている可能性を否定できません。

今回のエントリを書いていてわかったことは(人と意見が違う時はほぼこの結論になるのですが)、あるものに対する評価点、基準点が大きく異なるから意見が割れるのであって、反対の意見を聞いてもあまり参考にはならないということです。私の中で『100ワニ』の動きは悪いし(7/12追記:ここでは低予算アニメという背景の共有なしに他の映画と比べ1900円の価値のある動きではないという意味です)、「間」は多すぎます。カエルには全く共感できません。


なので私にできることは本エントリに対するクリティカルな感想(基準点、評価点の違い以外で私の明確な解釈ミスを指摘するもの)を待ちつつ、賞賛派をなるべく目に入れない(入れられない)ようにすることだけかなと思います。

好みが違う人のオススメを聞いても合わなくて苦しむだけですからね。




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