夏論を読んだ感想

疑問点

1,デカさ(M)に対する定義が不十分ではないか?

速さと夏の定義に対してデカさの説明がやや不足している印象を受けた。以下の文章でデカさの定義を済ませていると思うのだが、許容量という概念が理解できなかった。

まず、世界を許容するという感覚を理解されたい。われわれは都度、新しい世界を許容しつつ生きている。しかし、あたらしい世界を求めていくこと自体がストレスである(人間は現状維持を好むので)し、世界を許容しつづければ自己同一性が揺るがせになるリスクが高まる。(太字は筆者が施した)
ある人間がもつ世界の許容量は、当然不変ではなく、その人間の生き方によって変動する。仮に許容量が著しく低まり、かつて許容でき、一体となれていた世界を受け容れきれなくなったとき、世界との一体性は失われる。(太字は筆者が施した)
結論、M(デカくなる)とは、新たな世界にたいする許容量を増やすことである。(太字は筆者が施した)

真ん中の文章を読んで許容量とは「①自分が所属する世界を維持しようとする働きかけの程度」と解釈したが、それでは1番目の引用の説明や3番目の結論と明らかに異なる。(明らかに1や3は、既存の世界で無く、新しく受け入れようとする世界に対する話をしているように思われる

もし許容量が「②新しい世界に対してストレス無く許容できる度合い」と解釈した場合、それは新たな世界を求めること(=速さ)に含まれてはいないだろうか?(新たな世界を求めるとき、新たな世界を許容していないことなどあるのか?)この部分に定義の揺れを感じた。

まとめ
Mの定義付けが不十分ではないか?
⇨何に対する許容量の話なのか?
 ⇨新しい世界に対しての話であれば、それはaに含まれないか?



2,強い=夏に漸近する(Maを大きくする)としてよいか?(強いとは何か?)

人間は強くなりたいという前提を立て、さらに「①強くなるとは、夏や春に漸近することである。」という仮説を主張しているが、そもそも強いとはどういうことなのかがわからなかった。人間は強くなりたいという前提を立てるのであれば、「強い」とはどういう状態かを説明し、この強いという状態はMaを大きくすることで得られる、という話の流れにしなければならないのではないかと感じた。今のままでは未定義の「強い」という言葉にただオリジナルの定義を当てはめているだけに見える。そしてもしそのような話であれば、そもそもの前提が不要である。なぜならば「A(未定義の概念)になりたいか」という問いには賛同も否定もできないからである。

まとめ
強いとはどういうことなのか?
⇨「A(そうでありたいと願われる、少なくとも読者にとってそうありたいという前提がある概念)=B(筆者の提唱する概念)」という証明をする必要があるのに、この論証は「?(未定義の概念)=B(筆者の提唱する概念)」という構造になってはいないか?

あるべき構造
「A(読者にとって憧れ、そうありたい概念、強い)=B(夏に漸近)=C(速く、デカい)」
⇨憧れのAになるにはBであればよく、具体的にはCすればよい

現状の構造
「A(未定義の概念、強い)=B(夏に漸近)=C(速く、デカい)」
⇨AになるためにBやCすればよいのはわかったが、そもそもAがよいものかわからない


3,社会と世界と宗教を同一レイヤーで考えてよいか?(世界は社会に包含されるか?)

宗教と社会と世界の定義で、社会という場をAとした時に宗教は非社会(not A)という定義をしていると思われるが、世界はどのように定義されているかがいまいちピンとこなかった。

社会とは、われわれが望むと望まざるとにかかわらず、常にすでにそこにあり、そこで(基本的には)死ぬまで生きていかないといけないような場のことである。(太字は筆者が施した)
世界とは、われわれが選択可能な、都度人間関係や趣味、恋、共通目的などによって構成される場のことである。(太字は筆者が施した)

上記の引用だと社会と世界は人間がそこに所属することが選択可能かどうかという違いであり、その点で世界はnotAである。世界が宗教でない以上世界-社会と宗教-社会は別レイヤーの話になるので、すべて場という言葉で説明するのはおかしいのではないかと感じた。

また、「世界は社会に包含される」という定理を導き出しているが、社会と世界が定義上相容れないものである以上、この定理は誤っているものに感じられる。夏論では上記の定理によってかなり論が歪められている印象を受けるので、再考が必要に思われる。

これはあくまで個人的な感想だが、以下のように再定義するとスッキリするのではないか。

社会=われわれが生きるために自分の意思とは関係無く払う必要のあるコスト(お金、時間、心労)。人間(大人,not少年)の存在する前提条件

・イディオム
社会をする=コストを支払う。
社会と一体化する=コストを支払うことを了承する。コストを支払うことを厭わない。少年でなくなる。

宗教=社会を支払わない(社会を否認する)際、代わりにコストとなる(存在の前提条件となる)もの。社会の代わりになる独自のロジックをもつ。

世界=社会や宗教という前提条件をもったわれわれが、自分の意思で選択する場。コミュニティ。

このように定義すると直感的でない「世界」と「社会」の議論のズレが(私の中では)解消される。もちろんこの定義にすることで新しい問題点が出てくるとは思うが、少なくともこの3つの言葉の定義はもう少し丁寧に行う必要がありそうだ。

まとめ
社会と世界と宗教を同一レイヤーで考えてよいか?
⇨同一レイヤーで考えると定義の論理的な住み分けがかなり微妙になる印象をうける
世界と社会の包含関係も精査が必要そう(「世界」と「社会」の定義と噛み合いが悪いように思われる)

単純にわからなかったところ


・春の具体的情景
・「世界」と「セカイ」がどのように使い分けられているか

感想

強くなるためのロジックとその具体的な方法を書き手の独特なボキャブラリーで名付け、それをなるべく噛み砕きながら説明しており、方法論としてかなりわかりやすく説明されていると感じた。

だがMa=Fというロジックが先行しすぎていてやや肉付けが不十分ではないか?と感じる部分があったので、その部分の追加説明や再定義を見たいと思った。

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