ポケベル

「ではみなさんは、そういうふうにストップウォッチだと云いわれたり、ワンタイムパスワードだと云われたりしていたこの四角いもさい機械がほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊つるした大きな黒い図表の、右側の方に描かれた白くてもさい機械のところを指さしながら、みんなに問といをかけました。
 カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれはポケベルだと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。

 ポケベルという通信機器があった。通信と言っても受信しかできないなんだか変な装置だった。登場から数年でそれはDDIポケットのPメールに置き換わり、やがてキャリアメール、LINEへと進化した

ポケベルへの発信は家の電話か公衆電話から行う。公衆電話は3分10円で、3分以内にメッセージの送信が終われば10円、それを超過すると20円を超えていく仕組みだった。ポケベルは基本料金のほか追加料金はほとんどなかったので、懸念は発信時にかかる電話料金だった

当時、上野公園にたむろっている外国人がいて彼らは違法テレカというものを売りさばいていた。使用済みの正規のテレホンカードに不思議なシールが貼ってあり、それは再び使用ができるようになっていたのだ。そういうものを、例えば1,000円分5枚を1,000円などで売っていた。彼らはイラン人と呼ばれていたが、本当かどうかはわからない。同じ公園内の別の場所ではユダヤ人(と呼ばれていたひとたち)が露天でアクサリーを売っていた

友人はその光景をみてパレスチナじゃん、と嘆息したが、電波少年で松本明子がアラファト議長と対面したのはちょうどその頃、1996年のことだった

その危険そうなイラン人から違法テレカを購入し、イタイケな女子中高生にそれを転売するというビジネスがその頃都内の男子中高生のなかで僅かに存在したことは殆ど記録に残っていない

私自身はポケベルを持つことはなかったが、同級生でそれを持っているひとはいて、他校の女の子とメッセージを送り合っているようで羨ましかった。羨ましくて仕方ないので、相手の番号を調べて「もうおわりにしよう」というメッセージを送ったことがあった。ポケベルに発信者がわかる仕組みはなかったのだが(そもそも大半の利用が公衆電話からだ)、私だとバレたのが今でも信じられない

その「もうおわりにしよう」が私が生涯で唯一送ったポケベルのメッセージで、そして二度目にメッセージを送る機会は永遠に失われたのだった


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