ディープインパクトの思い出

飯田さんの馬券の買い方は、負け馬券を買う、であった。
馬券とは正式には勝馬投票券という。どの馬が勝つと思うか、勝つと信じるか、勝ってほしいか、勝ってくれないと困る。その思いをマークシートに込めるものだ。

飯田さんは「負け馬券」を選んで買っていた。負け馬券を買うなんて簡単ではないか。15頭立てであれば、1勝14敗なのだから、負け馬券を買うなんて勝つ馬を買うより14倍も簡単だ。いや、15頭のなかには明らかに上位には絡めない馬もいるのだから、もっと簡単だろう、と思われるかもしれない。

たしかにそうなのだ。しかしそれではお金が続かない。飯田さんは稼ぎが悪い人ではないが、無尽蔵にJRAに拠出を続けられるようなひとではない。飯田さんの馬券は、負け馬券を買う。それでも勝つ、なのだ。

正確には飯田さんは2着馬を予想していた。2着は好成績で賞金も出るが、負けは負けである。飯田さんは2着馬を予想し、馬単2着軸全頭流しという馬券を買っていた。

「2着の予想というのは難しいんだ」
水道橋にある喫茶店で飯田さんは言った。
「好位で進んで最後に競り負ける、逃げ馬・先行馬が残るケースがある。勝ちにいって勝てなかった馬が2着になることもあるし、勝てるはずのない馬が負けの最上位を取ることもある。野球で野村克也が言うだろ?『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』って。あれ競馬だと逆じゃないか?」

私は飯田さんがなぜ2着馬の予想に拘っているのかはわからなかった。飯田さんの言うように2着馬の予想は難しい。1着馬が5頭に絞れるレースでも、2等候補は8頭くらいになるものだ。配当に妙味もない。とくに1着に固い馬が来れば、人気薄の馬の2着を的中させても配当は驚くほど少ない。

飯田さんはなぜ2着馬を買うのか。彼の人生をそこになぞらえ、負けても勝つということを競馬で示したかったのか。1着馬の予想を放棄しても馬券収支でプラスになる可能性があるという矛盾をJRAに示したかったのか。もちろん私は彼の人生がいかなるものであったかは知らなかったし、彼の馬券収支がプラスになっているとは思えなかった。

飯田さんに最後にあったのは2005年のクリスマスだった。私は飯田さんに、なぜ2着馬なんですか、と聞いた。飯田さんは驚いたような顔をして、いまさらそこか、と笑った。
「俺の出席番号はいつも2番だったんだ。いつも出席番号1番の頭の後ろを見てきた。3番のやつは俺の後ろを見ていた。だからどの馬が2着になるのかよくわかるんだよ」
とすぐに嘘とわかることを言った。

「でもな、2着馬を予想して一番難しいのは馬に声援を送れないことなんだ。そうだろ、馬も騎手も1着を目指して走ってる。俺はそれに1着になって欲しくないんだからさ」
飯田さんはその日も馬券を買い続け、勝ったり負けたりしていた。水道橋の場外馬券売場はメインが近づくにあたり熱気がましていた。入場制限もあったような気がする。メインを前に、記念だからさ、と飯田さんは私に一枚の馬券をくれたのだった。

第50回有馬記念 6番ディープインパクト2着軸全頭流し

ディープインパクトが日本で一度だけ負けたレースだった。


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