絶望令和受験

 受験にしろ何にしろ、もっと「頑張れば良かった」と思う事は往々にしてある。この「努力」と言うのは誰もが何に対しても出来るように勘違いされているようだが、これが結構難しいし個人差が大きい。実に厄介である。スポーツにこれでもかと努力できる人間がスポーツを辞めてから社会人として努力出来ず結局アウトローな道に行ってしまうという話は聞くし、逆に勉強ならいくらでも出来るがコミュニケーションに関しては努力すら出来ずに集団になじめないなんて言う話も枚挙にいとまがない。努力にも適性が存在するのである。
 そしてもう一つ忘れてはならない事がある。多くの場合人間は簡単には変わらないという事だ。仮に昨日までやる気がさっぱり起きなかった単語帳を今日から突然開いたとして、続くだろうか?大体の人は続かないであろう。普通に考えれば当然である。結局人間は強い動機や衝撃が無い限り強く動くことは無い。そしてその強い動機や衝撃になりうるものも人次第である。要は自分の中にある何かと外的要因がカッチリとハマった時にのみ隠れていた潜在能力が引き出される。
 ここで一つの仮説を提示したい。努力と言うのは原因ではなく、結果であるという事だ。努力しようと思ってやるのではなく、何か自分の中身と外的要因によって生じた衝動や行動、それが結果として努力になっているという事である。つまるところ「努力しよう」などと言うのは因果関係の逆転した考えであり無意味に近い。何かをしたいのであればまず努力の源である強い動機を探すべきであろう。もし仮に現存する動機だけでは不十分なら、やり方を工夫すべきである。間違っても「頑張らなきゃ」などと言う考えだけでどうにかしようとしてはいけない人間は変わらない変わらない事を前提にやり方や環境を変えていくしか方法はない

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