実験課題『会話有料化』

 会話が有料化された。理由や仕組みはまだ発表されていない。とりあえず今日、わたしはいくら持って街に出ればいいのだろう? 100億円もあれば十分だろうか。少し前まで銀行口座には6兆円ほどあったけど、あの資金は何かに使ってしまったような気もする。

 有料化されたその日から音声、テキスト、データの送受信、あらゆる直接的なコミュニケーションについてコストが発生することとなった。有料ということは、逆にいえば会話を買うことができるということだ。実際に低所得者のキッズたちの会話は半分以上が企業に買い取られている。ひどい場合だと自分の会話をすべて売り払ってしまって、新しく発売された洗剤の素晴らしさや、来シーズン配信される新しいアニメの設定や、男性用生理用品のことを一生延々と話している。なんともみじめでかわいそうな人たちだ。

 もちろんわたしは買う側だ。あの日から10年ほど経つが、その間ずっと買って買って買いまくった。貧しい人の会話ほど安く、富める人の会話ほど高い。これが市場原理だ。おかげで私の経営している会社ではみんな週に120時間働いている。みんな口を開けば「できないって言葉は嘘つきの言葉なんだよ!」「ハード・コアに働けないやつはとっとと辞めろ!」というやり取りが飛び交い、とても活気に満ちた職場となっている。彼らの安い会話はわたしがすべて買い占めた。買い上げた彼らのやりとりは「休みが取れたらどこへ行こうか?」とか「来月出産だ」というようなつまらないものだけれど、これをバラバラにして売りさばけばかなり儲かるビジネスになる。世の中には売り払ってしまった自らの会話を少しでもいいから買い戻したい、他人の会話であってもなんでもいい、とにかく自分の会話が欲しいという人が大勢いて、おかげでわたしはますますリッチになっている。

 反抗するやつもいたけれど、それも最初だけだった。もう名前も忘れてしまったが無能なくせにわたしに直接文句を言ってきた生意気な男がいた。だから、そいつの会話をすべてトマス・ピンチョンの『重力の虹』にしてやった。わたしが途中で放り出した小説だ。それからというもの、彼は口を開けばV2ロケットの話をずっとしていて、しまいには泣きながらバナナのステーキについて話していた。必死になって言葉を絞り出そうとするけど出てくるツイートは密林のような言葉の森でさっぱり意味不明。「次はフランツ・カフカの『城』にするぞ」と脅したらすぐに退職していった。あれは本当に愉快だった。

 毎日湯水のように金を使い、無尽蔵に会話をばらまき、会話を買い占め、事業を大きくした。プライベートジェットであちこち飛び回り、ロケットを作ったり街を作ったり、ビジネスと乱痴気騒ぎに明け暮れた。ますます私は豊かになっていた。素敵なパートナーとも巡り合った。突然パーティに現れた黒髪の女性。わたしたちはたちまち親密な関係になった。幸せな日々だった。でもある夜、ささいなきっかけで口論となり、わたしたちの会話は徐々にエスカレートした。売り言葉に買い言葉の応酬。ついわたしは彼女の会話をプルーストの『失われた時を求めて』に差し替えてしまった。一生分の会話を。タワマンの最上階のペントハウスが買える程度の支払いだった。以来、彼女は19世紀フランスのことしか話せなくなった。インスタグラムに投稿する画像もマドレーヌだけだ。

 どうしてこんなことになってしまったのだろうか。驚いたことに、わたしはちっともショックを受けていなかった。はじめて自分がラインを超えてしまっているのかもしれないという考えが頭をよぎった。一体いつから? あの日、会話が有料化された日。本当はあのときわたしは一文無しだったのでは? 当時本当のわたしは職もなくほとんどホームレスになりかけていた。手元にはわずかな現金もなかった。腎臓を売るように自分の会話を売るしかないのかもしれない。試しに他人の会話の値段を調べてみた。リストを見ながら誰かの単語ひとつさえ買うことができないことを思い出した。舌打ちして足元を見つめた。ふとあることを調べてみた。唯一その人物だけが無料だった。わたしは恐る恐るその人物の会話を全て購入した。そこにはわたし自身の名前が書かれていた。そしてゴミ捨て場で拾ったビジネス本を流し込んでいった。

 わたしはわたしの会話を買い戻さなければ。いったい誰から? 10年ぶりにわたし自身の会話の値段を見てみた。そこには途方も無い金額が表示されていた。

27,590,000,000,000円

 これが市場原理か。これはわたしの全資産を上回る額だ。買い戻せばわたしは破産してしまうだろう。こんな迷いは、きっと一晩眠ればさっぱり消えてしまい、思い出すこともできなくなるだろう。わたしはどうするべきだろうか。その時突然、この世で一番高価なものを買ってみたいという欲望が沸き起こった。結局私は一夜ですべて失った。家も株式も現金も不動産もマドレーヌを食べる恋人もすべて私のもとから去っていった。恋人は去り際に私をボコボコに殴りまくった。おかげで口の中はズタズタだし、路上に寝ていても体中が痛いし片目も見えない。文字通り私は空っぽだった。私は私の会話を何で満たせばいいだろうか。とりあえずマルセル・プルーストでも読んでみようか。昔読んだ時は、スワン家の方に行く途中で手放してしまったような記憶がある。『重力の虹』も『城』も今度は読み通せるかもしれない。そうしたらあなたはいくらで私の会話を買ってくれるだろうか。


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