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地下をはしる

二〇一七年九月十六日土曜日

曇りと雨

♢帰り道の電車のなかでの記録 はしり書き

relight committee三回目。

前半はrelight committeeとはなにかということを、対象 (こども・親しい友人・アート関係者)を想定して、グループで説明することを通して、じぶんが行なっていることを認識、確認するということを行なった。

後半は、身体と時間をテーマに座学とディスカッション。たとえば、赤瀬川源平さんの著書のタイトルである「老人力」という言葉を切りとったときに、じぶんは老人力はあるのか。老人力はどんなちからのことだと思うのかを考え、それぞれに発言する。それは“あきらめ”、それは“経験を持って、年齢が下のひとたちに伝えること”、とそれぞれ異なる。話からじぶんと結びつき、浮かび上がるものや連想したことを話してゆくと死についても話は及ぶ。後半、いかに生きるかであるという言葉が数人から放たれた。育てるの話はあまりなかったなあと、帽さんにきょうの内容をメールに打ちながら思う。

帰りの電車は、走った後のようにばくばくしていてなにかが膨れていてお腹はへらないという感じ。こういう感覚は、前にも経験がある。高校の部活だろうか。その後にもあったような気がする。あ、ワークショップの講師をした後の感じだ。

歴史や時代も含めた知と、技が圧倒的に足りないなと前半の活動のなかでまた思う。これまでできていなかったように思っていた、じぶんの言葉で語るということはできるようになってきた。けれど、なにかを語るときに厚みや深みがない。そこを鍛えてゆきたいのだなと。

そして ほんとうに向き合えているのかどうか、それはわたしの素直な言葉なのかどうか、というのをもっともっと何回も何回も問うてゆかなくては、まだまだだということも、第二回のレポートを読んだときにもひろこさんがきれいごとを言ってもしょうがないということを話したときにも思ったことだった。

駅を降りたら、こどもが待っている。走り終わってすぐに泳ぎはじめるような。ジョギングをして、ゆっくり呼吸を整える時間がほしいなあとすこし思う。

晩ごはんは、一年ぶりに来た弟のための母のごちそう。ステーキ、肉じゃが、なすの煮びたし、サラダ (レタス、トマト、ブロッコリー、黄色いパプリカ)、グラタン、豚汁、ごはん。
思いにあふれたメニュー。

♢ねむる前に
これからわたしが社会になにができるのかを考えようと産後思いはじめたときに、漠然とアートという手段が浮かんでいた。ぼんやりした思いをくっきりさせ、向き合うため、手段や事例を学ぶため、relight committeeに参加したいと思った。

なぜ、アートなのか。どうして、relight committeeなのか。

アートとはなにか、
relight committeeはアートプロジェクトなのかという問いをもっと踏み込んで考えてみてほしいというメッセージをもらったときに、思い出した。
わたしにとって、チャーミングにというところは、とてもキーだ。でもそれだけではないはず。アートとはなんだろう。

♢次の日のメモ
老人力は、チャーミングさ。

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