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月の中へ

歪な丸い球体の中で、私が見たのはなんだったのだろう。

新せ界の時もそうだけれど、東京ドームでライブをするということを発表してから不思議な時間が流れていたように思う。

一日一日はとても長くて、一時間が全然過ぎちゃくれなくて、途中の消えた長い線のようなのに。だけど振り返った瞬間とても短い欠片になる。時間ってなぞなぞみたいなものかもしれない。

まず、前提として私という人間はそんなにポジティブじゃない。これに関しては責めないでほしい。俺はそういう人間だ(いつのネタ)

時々自分でもびっくりする。「そうはいうけどさ」が心の中の口癖の、そういうやつってことを頭に入れて、先へ進んでほしい。

「何歳の頃に戻りたいのか?」

そうはいうけどさ、そんなのなんとなく正解とする答え決まってるじゃない。答えが決まってる問いかけをするなんて、ちょっとずるいと思った。

今は過去よりも素晴らしく、未来は今よりも素晴らしいはずなんだ。

ちょっと前まで明るくにこやかに言えてたことが最近ほんの少し怖い。言葉のピースの隙間にはまって、考えてしまう。 

何を根拠に、どこまで心の底からそう思えるんだろうって思う。明るいやつってスッゲーなって思う。"よりも"はダメか。とか"なんて"もダメだなとか。こういうのをぶち破ってくる太陽パワー。こういう人が私は好きです。

基本的に秋元康さんは未来って素晴らしいよって感じだけど、私の考えはちょっと違う。そうかな、そんなの未来が今になるまで分からないじゃん、なら私は言い切れないってずーっと反抗期の思考で止まってる。

過去に戻りたいって思ってもいいじゃないって思う。

でもそれは今に絶望してるからとか、未来に価値を見出せないからじゃない。未来が明るいって信じてないからでもまったくない。

ちょっとね、違うんだなあ。

今、今、今ってずーっと点を楽しんでそれが金平糖のたくさん入った袋みたいに私の中には詰まってる。

1st tourも、2nd tourも、3rdも4thもバディ感もアニバーサリーライブもケヤフェスもデビューカウントダウンライブもみんな詰まってる。

一番楽しかった!

なんだかんだいいつつ、そんなことをついついぽろっと言っちゃってるけど、その度に後からうっすら「あーまーーたやっちまった」と反省する。エブリデイ大反省会。人は反省しなきゃ成長しないものなのです。失敗が人を強くする。えへ。

一番って言った瞬間、それ以外の別のものが私の中ではそうじゃなくなってしまうような感覚が薄ら流れてる。本当はどの瞬間も比べられないはずなのに、なんだかつい簡単にそう言ってしまう。楽にかまけて、そんなつもりまったくなくても、瞬間的に大切だと思ってる何かを蔑ろにしてしまった気がする。己の未熟さを痛感する。

一番なんだけど、一番なんだけどね?いついつも今が一番なんだけどね?それは間違いでもない。えっ、違う、おまえもあんたもきみも一番なの。じゃあ"一"って使うんじゃないわよあんた。いやいやでも別にそれらって比べるものじゃないし。じゃあ"一"とかいちいち使うなよ。待って、今の親父ギャグ!?!?←こういう脳内裁判を永久に開いてる。

一って言葉が最近怖いんですよ私はね。という導入はさておくとしましょう。

ドームの中でライブを見ているという感覚すら奪われてたかもしれない。あっ、ここドームだって思ったのは観覧車の上から見た時ぐらいかも。

桜月と流れ弾で使われたあのお得意の大きな丸い月(ブルームーンキスでも見かけるやつ)

私は、今やあれをチュッパチャプスだと思ってる。

歴史はあれがチュッパチャプスだったと知る前か後にきっと別れてる。

私は光栄なことに、そんなチュッパチャプスの中にご招待された地球人なのである。

森田ひかるさんが片目を細めてみた"月"いいや、チュッパチャプスの中に私達は足を踏み入れてたのかもしれない。

東京ドームって月の中みたい。この狂喜乱舞は地球から見たら月に映る兎の影みたいなのかもしれない。

一週間ぐらい経って、そんなお月様の中にいた時間もカケラになった。

私はチュッパチャプスの中から、かぐや姫よろしく誘拐されて地球星で生きてる。まったく心穏やかではない。早くチュッパチャプスに戻りたい。

だけど、私が私として足をついて立っている場所にはいつも月が見えてる。そういう距離感っていいなと思う。

月に手を伸ばしたいのならば、きちんとしゃがんで準備をしなくちゃいけないんだって、そんな当たり前のことに、なんと驚いてほしい。最近気づいた。

自分の世界を自分として生きて初めてへのご招待チケットが発行されるのかもしれない。多分、クレジットカードの特典よりは当たりやすい。自動販売機のゾロ目スロットよりも当たりやすい。優しい地球様にバンザイをしたい。

私はいついつも思う。今という瞬間をぎゅっとして飴にして、永久保存して、いつでも思い出したい。そういう瞬間がたくさんあることはいいことなのかもね。えっ、待って待って!!この味最高!!!って楽しみたい。そしたら絶対ピントを合わせられる自信がある。そういう飴をドラえもんがくれたらいいのにね。

さて、ここまで読んで「ドームの話はどこじゃらほい」となったことでしょう。

櫻坂のMCでここ数年ずっと触れてくれる話題がある。それは観客一人一人に人生があるということ。

その時々、発言するメンバーによって言い方に差はあれど、こんな無数の人間の人生を観客って塊じゃなくて一つ一つ分かってくれているような気が勝手にするぐらい、言葉を震わせて言ってくれる。

どうしてこの長文の中ライブレポもせず己を語っているのかと言うと、これは最大限のMCへのお礼なのだ。

私と櫻坂っていうのは、イベントでしか交信のできない他の星の人間だと思ってる。日常で「今日の電車臭い」という相手でもなけりゃ、帰りに中華食べたいという相手でもない。向こうからする私もそう。ひかるちゃんだって、私に急に「ガチャガチャしにいかない?」とか言えない。

ようは、生活に直接関わってるわけじゃない。ずっと平行線として私達は存在していて、だけどこうして気まぐれにチケットが渡される。そういう時だけぐいんと曲がって交差する。本当に、交信みたいだって思う。

ハロー、櫻坂さん。こちら私。ところで元気でしたか?という感じでライブの一曲目は見てます。あとbuddies。

そんな瞬間的存在の人間を、あんな大切に思ってくれる透明な気持ちに、私はいつもいつも震えてしまう。

演出がどーだったあーだったとか、ダンスがカクカクしかじか、こんな意味があってあんなストーリーがあるんじゃないかってこと。あんまり上手く説明できないタイプなので全て割愛させていただく。

だって私は感じてるのであって、考えてるわけじゃないから(深いようで深くない)

最後に。
東京ドームが東京ドームに見えなかったのは、ここだから特別にパフォーマンスを頑張るみたいな部分がなかったから。

足をつける場所が変わっても、上にいる人たちはなんら変わらない。

いつも通り。

また同じ大きさの金平糖が一つ。

さて次の交信まで、地球が滅びないことを祈りましょう。


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