アウトプットが大事
noteの記事を見ていると
・アウトプットの練習のためにやっています!
・インプットよりもアウトプットのほうが大事
みたいな、アウトプットの鬼のような人をたくさんみかけます。
僕だって確かにアウトプットという言葉が頭をよぎったのは間違いないですが、こんなの言われなくてもというか、誰でもわかる簡単なことじゃないですか?
だってnoteって書いたり発表したりするところですもん。
んな当たり前のこと言われても「せやな」としか思えないです。
アウトプットの重要性に気づいているのはさも自分だけ、私が他よりも超越している、一段上に立っているという謎の優越感を味わっているのでしょうが、なんだかそういう光景を目にすると、すごく滑稽と言うか、うすら寒さを覚えてしまいます。
結局、意識高いふりをしたマウンティングなんだなぁって思いながら、そういった記事を眺める毎日。あぁ、結局ここもそういうところだったかとちょっと後悔し始めている今日この頃。
プログラミングを始めたときもそうでした。Twitterにプロゲートの進捗状況を自動ツイートしてくれる機能があるのですが、正直「うわーマジかよ…めっちゃ痛そうな人たちめっちゃふぁぼしてくるやん」って思って一気にプログラミング熱が冷めてしまいました。
そんなに人生全力で生きなきゃダメなん?ある程度貢献して、ある程度人様に迷惑をかけなきゃそれでいいじゃんって言う人ってどういう世界で生きていけばいいの?
そして頑張りきれなかった人には、もう限界だって言っているのに「限界は自分で乗り越えるもんだ!」とか「君の頑張りはその程度だったんだね」とか心無い言葉を吐いてしまうのだろう。そりゃうつは無くならないわけだ。
適当に生きて、適当に頑張って、適当に遊ぶ。全力人間はこと賞賛されやすいし、尊敬もされやすい。でも僕は敢えて職場の同僚が悩んでいたら「大丈夫だ、なんとかなる」と言ってます。だって悩んでるってことは頑張っている証左だから。もちろん人様に迷惑をかけるようなことをしているのなら話は別ですけどね。
昭和の時代は良かったなぁなんて言葉がある。どこかのんびりしていて、みんななんとなく前向きで。でもその確信もなくて。でもモーレツに働いていた人もいた。なんだかのんびりする人がいなくなってしまったような気がします。
僕の好きな曲に「だまって俺についてこい」って曲があります。植木等さんの名曲で、こち亀のOPに使われていたイメージがある方もいるかもしれません。この曲の歌詞に「そのうちなんとかなるだろう」っていう歌詞。まさしく僕の生き方そのものです。
まぁ適当に生きてるけど、それはいずれ頑張んなきゃいけないだろうなってときのためにとっておく。だいたい自分の出来ることを出来るだけやってりゃ迷惑もかけないし、そこそこ自分には返ってくる。
僕は思い詰めてどうしようって思うタイプなんですけど、後輩にはそんな風になってほしくなくて。でも僕には問題を解決する力なんてないからとりあえず「大丈夫だ、なんとかなる」しか言わないんでしょうね。
僕のこの能天気さにちょっと救われるような人がいればいいなぁ。
それでは。ぶた。
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