「努力の賜物」という羽
12月24日、クリスマスイブに開催される漫才日本一を決める大会「M-1グランプリ」。
毎年PVが公開されているのだが、採用される楽曲のセンスが凄まじく、Mー1を盛り上げている。
そして今年も公開されたPV。採用されたのは、日食なつこさんの「ログマロープ」。
日食さんの歌詞は、人を「殴る」。
「歌詞に殴られる」という感覚に魅力を感じ、日食さんの曲を沢山聴いてきた。ログマロープももちろんお気に入りだが、最も殴られた曲は、と聞かれれば迷わず「大停電」と答える。
その「大停電」の中に、こんな歌詞がある。
この歌詞、思い当たる節がありすぎる。
私は大学に入るために、それなりの勉強をした。当然私よりも沢山勉強をしている人はいただろうし、遅くまで引退せずに部活を続けられた人もいる。お隣韓国では、受験が全ての学歴社会に文字通り命をかけて挑む人が幾人も存在する。
そんな人々に比べれば私の努力など取るに足らないものかもしれないが、当時の感覚としてはかなり頑張っていたし無理をしていた。
だから、「頑張った風だけど世界は広し、君なんか大したことないで」という批判は受け付けられない。そんなの分かってる。
そんなこんなで掴み取った第一志望合格なのだから、私は入った大学をさぞ誇りに思っていた(今も思っている)。だからか、大学で得た知識を無謬だと勘違いし、自分の頭で考えることもせず空洞の自信をつけてきた。
これはサッカーでも同じだった。この1年8ヶ月の間、沢山新たなことを吸収した。高校3年間でも素晴らしい仲間と監督・コーチのもとで大きく成長できたが、大学ではそれ以上に多くを学び成長できたと実感している。
そのせいか自分の武器は「吸収力」だと思い込み、本や映像から知識や技術を「こういうことか」と簡単に身につけられる気がした。
サッカーは毎日アウトプットの時間があるから自身の間違った感覚を修正する機会に恵まれているのは最低限の救いだ。
「苦労して手に入れた大学での学び、間違っていたり、他大学に負けていたりする訳がない。」
「試行錯誤を繰り返し、時間をかけ成長してきたのだから、この知識や技術は確かなものだ。」
と誤認する日々。これを「馬鹿の山」と呼ぶ。
ダニング・クルーガー効果の説明でよく使われるこの言葉だが、一度山を降りれば「絶望の谷」があり、「啓蒙の坂」「継続の大地」へと繋がっていくと説明されることが多い。
果たして本当にそうだろうか。
思うに、馬鹿の山ではなく馬鹿の山脈ではなかろうか。
馬鹿山脈からは簡単には降りられない。今までの苦労や努力によって得た知識や技術が、「これでいいのさ、このまままで」と勝手に羽ばたき身体を山頂へと運んでいく。
何度も自分の非力を痛感してもなお、自分の後ろにある羽は無傷で生き生き。そのくせ試合では全く羽ばたかずシュートに手が届かない日々。
いつになれば馬鹿山脈から降りられるのか。
いつになれば大停電の最中、蝋燭に明かりを灯せるのか。
「いつか灯せたらいいな。灯せるかな。」
こんなことを言えば、きっと日食さんに
「お前の描いた夢物語を聴くのは飽きたんだ。」
「キャンバスはもういっぱいだろ、いい加減形にしてくれ。」
って殴られるかもしれない。
そんなことをMー1のPVを観ながら思った。
駄文。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?