【読本メモ】『アメリカ紀行』を読んで

アメリカ紀行を読んだ。
色々考えたことを書く。

本を読みながら後で読み返すページをLINEにメモしたのに、今となっては見返す気がしないのは何故だろう。
それはもう古くなってしまった感性だから?
今覚えている、書きたい内容の方が大切だと信じているから?

(1)

考えることには発散と収束があって、それは意識的に使い分けないとごちゃ混ぜになってしまう。
ごちゃ混ぜになってしまうと、結局一般論的な面白くない文章ができてしまう。
発散と収束でそれぞれツールを分けるということが書かれてあったが、私もこの頃それを実践していた。
発散では、紙のノートにペンで書きなぐる感じ。文の構成や位置とかも気にせず、ただただ吐き出していく感じ。
収束は、PCにキーボードでまとめていく。この段階では、アウトプットする際に文の繋がりや段落を嫌でも意識してしまう。文字も左から右に流れるしある程度の文字数で改行される。
今回は丁寧に発散するのが面倒、且つ読了してすぐなので頭の一次記憶にある発散状態を思い出しながら収束を試みる。

(2)

LGBTに関する記述があった。
これらはカタカナで外来の概念であり、日本の文脈で捉えなおさないで大丈夫なのかという話だった。
確かに、西洋的な用語をその言葉だけ日本に持ち込むとごちゃごちゃしてきそうだし、その言葉では拾えない、西洋的には考えられないようなタイプの日本人も存在し得ると思った。

(3)

他にも、「天皇の交代、平成から令和に移行したことを日本人の若者はどう思っているのか」をドイツ人から質問されるシーンがあった。海外でアジア系を見つけて話しかけてくる西洋人は、基本的にアジアに興味を持っている。それが対日本の場合、かなり日本人的には難しい政治や宗教、歴史に対する質問を平気で投げかけてくることを思い出した。
所謂教養レベルの差を世界に見せつけられる瞬間である。今度はじめて海外に行くSさんもそんな経験をするのだろうか。

(4)

ここで降参。
いったん今書きたいことを書きつくしたので、LINEメモを参照する。
一つ忘れていた。
NYが東京よりも大阪に似ているとする筆者のメモだ。
NYはyouを主語にして、一言二言声をかけてくれることが多いらしい。
東京は他者は意識の外に締め出す。存在を認識の外に追いやるので声かけなど発生し得ない。
人が増えすぎると東京のようになる気もするけど、NYのマンハッタンでも大阪のような感覚を覚えるのであれば、違うところに複雑な原因がありそう。

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