スナック昭和 第7回 モータースポーツと芸能人

第7回 モータースポーツ特集(2020年2月7日、ミラティブにて発信)

※注:この記事の内容についての解説は、「スナック昭和 はじめに」をご覧ください。

●「スナック昭和」のコンセプト説明

▽ミラティブ始めて、エモモを使ってVTuberの真似事やらかしながら配信してるけども、中身昭和のおっさんでしかない私。
なら開き直って、昭和のおっさんにしかでけん配信にしたろということで、エモカラで「昭和の曲」専門で、ほぼ毎晩1曲から数曲ずつ唄うととも、その曲に関するエピソードも並行して解説する「スナック昭和」。
▽そんな昭和のオッサンにとって、体に堪える寒さ、皆様も体調には気を付けてほしい。
▽環境が環境だけに、配信途中で途切れたり、毎晩とはいかん可能性あり、そこはご容赦を。

近藤真彦

▽モータースポーツと芸能人、というテーマで、絶対に避けて通れないのがこの人。
ジャニーズ系アイドルの古参で、「たのきんトリオ」(田原俊彦、野村義男、近藤真彦)の一人として知られた。
芸能界デビューは1979年、「3年B組金八先生」の星野清役であった。
翌年「スニーカーぶる~す」でソロデビュー。以後、「ザ・ベストテン」などの歌番組の常連となり、1987年の日本レコード大賞で、「愚か者」が大賞を受賞した。
モータースポーツの世界へ足を踏み入れたのは1984年。当時新発売の日産マーチのイメージキャラクターとなり、「マッチのマーチ」というフレーズとともに、富士フレッシュマンレース第2戦で、そのマーチを駆りレースデビュー。以後、「日本一速い男」こと星野一義のもとでレーサーとしてのキャリアを積み、全日本F3選手権、ル・マン24時間耐久レースなどにも参加。1994年のJGTC(全日本GT選手権)でチーム・タイサンから出場し、初のポール・トゥ・ウィンを飾る。
以後、F3000やフォーミュラニッポン、ル・マン24時間などの各種カテゴリに出場、2002年に引退するまでレーサーとして活躍し続けた。
1998年には、当時所属していたチームTMSの協力で、若手ドライバーの育成を目的とした「KONDO MASAHIKO RACING PROJECT」を発足。レーシングチームの監督としてのキャリアがスタートする。以後、彼のチームは「KONDO RACING」と名前を変え、彼はオーナー兼チーム監督となる。
以来今日に至るまで、スーパーGTのGT500クラス、スーパーフォーミュラ、スーパー耐久など国内四輪レースのトップカテゴリにおけるコンテンダーとなる。
「ジャニタレの道楽」と揶揄されることも多かった彼だが、曲りなりにも国内トップカテゴリで優勝経験を持ち、あまつさえチームオーナーとしてスポンサーを自ら探して、何百億円もの資金が必要になるレースの世界で今なお第一線で活躍し続ける彼は、間違いなく日本のレース界を支える屋台骨となっている。

セトリ:ああ、グッと


欧陽菲菲

へ?なんでこの人がモータースポーツ?と思われるかもしれないが、彼女は日本の四輪レース界の黎明期に活躍した故・式場壮吉の奥さん。
式場壮吉は医者の息子として生まれ、浮谷東次郎・生沢徹・本田博俊(本田宗一郎の息子、無限〈m-tec〉の代表)・徳大寺有恒らと共に活躍。1964年にトヨタワークスドライバーとしてコロナを駆り、第一回日本グランプリで優勝を果たす。第二回日本グランプリではポルシェ904を駆り、生沢徹のプリンス・スカイラインGTと凄絶なバトルの末優勝を果たす。
現役引退後、カーアクセサリーメーカーの「レーシングメイト」経営などに才能を発揮し、自動車評論家としても活躍した。
式場が欧陽菲菲と出会った時、既に式場には離婚歴があったが、二人は非常に意気投合し、1978年に結婚。以後式場の晩年(2016年)に至るまで仲睦まじかったそうな。

セトリ:ラヴ・イズ・オーヴァー


いかがだったでしょうか、今回の第7回目のスナック昭和「モータースポーツと芸能人」。
ただ、モータースポーツに関わっている芸能人はこの二人だけではないので、第2回もいつかやりたい。

新型コロナウイルスも蔓延している昨今。本格的なアウトブレイクは4月頃ではないか、などとも言われているので勘弁してほしいけど、皆様も体調を崩さないように。


補足:

2月初旬に「4月頃にアウトブレイクではないか」、としていた予測が今まさに当たろうとしている現状に恐ろしいものを感じるところです。

結局「モータースポーツ」特集第2弾としては実現しなかったのですが、後に稲垣潤一さんの特集を組むことができた(レーサーとしても、レーシングチーム監督としても活躍した人なので)から、実質第2弾と言っても過言ではないのかな、と。

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